マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

後鳥羽上皇のこと(3)

 ――承久の乱は、後鳥羽上皇の一人相撲であった。

 ということを――
 きのうの『道草日記』で述べました。

 その「一人相撲」の根拠は――

 ――北条義時、追討――

 を決断するに至る過程に求められます。

 承久の乱は――
 かの有名な関ヶ原の戦いと同様――
 この国を東西に二分する大戦(おおいくさ)であることは――
 きのうの『道草日記』で述べた通りですが――

 このことは――
 西日本の民意――京に住む皇族や公家たち、あるいは西日本に拠点をもつ武家たちの総意――が、

 ――北条義時、追討――

 で、まとまっていたことを意味するのでは決してありません。

 北条義時の排除を真剣に望んだのは――
 後鳥羽上皇その人と、その取り巻きの一部に限られていました。

 京の皇族・公家や西日本の武家の大半は――
 北条義時を指導者とする鎌倉幕府の政治手法に少なからず不満は抱いていても――
 北条義時を本気で排除しようとは思っていなかった節があります。

 ――当代の治天の君後鳥羽上皇)が「排除せよ!」と本気で命じているようだから……。

 という理由で――
 何となく「北条義時を排除しよう」という気になっただけに過ぎなかったようなのです。

 それほどまでに――
 承久の乱が起こるまでの後鳥羽上皇の権威は、高かったのです。

 後鳥羽上皇は、まぎれもなくカリスマでした。

 裏を返すと――
 そこまで権威が高くなければ――
 京の皇族・公家たちや西日本の武家たちが「北条義時を排除しよう」と思うことはなかったでしょう。

 もちろん――
 承久の乱が起こって――
 後鳥羽上皇北条義時によって逆に排除されることもありませんでした。

 承久の乱が起こるまでの北条義時は――
 東日本に拠点をもつ武家たちをまとめ、鎌倉幕府の指導者としての地位を維持することで手いっぱいであった節があります。

 東西を二分する大戦を起こし――
 京に住む皇族や公家たちを屈服させ、西日本に拠点をもつ武家たちを残らず支配下に組み込もうとは――
 少しも思っていなかったようなのです。

 当時の鎌倉幕府の支配圏は――
 少なくとも実質的には――
 東日本にしか及んでいませんでした。

 そのことを歯がゆく思うような風潮も――
 当時の鎌倉幕府にはなかったようです。

 ――東国(東日本)の者たちが互いに争うことなく暮らしていければ、それでいい。

 それが――
 当時の鎌倉幕府の基本姿勢でした。

 そうした相手方の基本姿勢を知ってか知らずか――

 後鳥羽上皇は――
 取り巻きの一部の支持を得ただけで、ほぼ独断専横的に、

 ――北条義時、追討――

 の命を出します。

 そして――
 鎌倉幕府を相手に大戦を仕かけるのですが――

 ――治天の君は、そこまで我らを目の仇にされていたのか……!

 北条義時を筆頭とする東日本の武家たちは――
 後鳥羽上皇の並々ならぬ殺意を感じとって、むしろ一致団結をし――
 京の皇族・公家たちや西日本の武家たちに断固たる戦いを挑むのです。

 同時代のカリスマに殺意をもたれたことが――
 かえって闘志に火をつける形となりました。

 以上のような背景があったために、

 ――承久の乱は、後鳥羽上皇の一人相撲であった。

 といえるのです。