――日本の国のかたちは、承久の乱の前後で大きく変わった。
とする考えがあることを知り――
(たしかに、そうかも……)
と深く感じ入りました。
承久の乱とは――
その政変性が重視され――
昭和前期までは「承久の変」と呼ばれることが多かったそうですが――
実際に起こったことは、かの有名な関ヶ原の戦いにも似た東西を二分する大戦(おおいくさ)でした。
天皇家が公然と「排除せよ」と命じた人物が排除されずに生き残った例は――
以後――
天皇家や公家によって主導されていた京の朝廷は政権から実質的に締め出され――
武家の主導する幕府が政権を担い、全国を統治するようになります。
それくらいの大事件であったので、
――日本の国のかたちは、承久の乱の前後で大きく変わった。
との主張には十分な説得力が感じられるのですが――
この承久の乱の勝敗を分けたのは――
北条義時らの状況判断の速さであったと考えられています。
馬以上に速い伝達手段はなかった時代です。
通常なら5日はかかるところを――
反北条派の使者も親北条派の使者も、わずか3日半で駆け抜けたといいます。
このとき――
その時間差は僅かに5時間であったとか――
3日~5日での5時間ですから――
ほとんど誤差の範囲内といってよいでしょう。
歴史の妙味といえます。
いち早く事態を正確に把握した北条義時らは――
後から来た反北条派の使者をとらえ、とりあえず天皇家の命令はなかったことにして――
その日のうちに鎌倉の武家の諸将らの意見をまとめあげ、京へ大規模に派兵することを決断します。
これは英断でした。
簡単にできることではありません。
このとき――
北条義時らの脳裏にあったのは――
おそらく――
――兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久(こうきゅう)なるを見ざるなり。
現代語に訳せば、
――争いごとは、拙速がよかったという逸話ならきくが、巧遅がよかったという事態はみたことがない。
です。
鎌倉前期の北条氏は、まことに機敏でした。
しかも――
その機敏な判断は兵法書の理に適っていた――
歴史の勝者となった所以です。
この点で――
いわゆる、
――小田原評定
で知られる戦国末期の北条氏とは異なります。
鎌倉前期の北条氏は、承久の乱の窮地を巧みに乗り切って、この国のかたちを大きく変えた――
といえるのです。
以後――
鎌倉幕府が倒れるまでの100年ほどを、
――「北条時代」と呼ぶのがよい。
と提案する学者もいるそうです。
賛否両論はあるようですが――
日本史を承久の乱の前後に着目しておさらいすると、
(たしかに、そうかも……)
との思いを新たにします。