マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

北条氏のこと(4)

 鎌倉幕府の執権を世襲した北条氏は――
 初代・時政から、2代・義時を経て、3代・泰時までは長命であったにもかかわらず――
 なぜ4代目以降は短命であったのか――
 
 この問いは――
 きのうの『道草日記』でも述べたように――
 近親結婚説や平均寿命説では、すんなりとは説明できません。
 
 よって――
 第3の説を考える意義があるですが――
 
 ここで重要なのは、
 
 ――北条氏が日本列島のほぼ全域を支配下に収めたのは、承久の乱のあとである。
 
 との見解です。
 
 承久の乱のとき――
 執権は――
 おとといの『道草日記』でも述べたように――
 2代・北条義時でした。
 
 義時――
 ときに59歳――
 
 のちに3代・執権となる泰時は――
 このとき、39歳――
 
 推定平均寿命が35歳の時代です。
 
 2代・義時はもちろん、3代・泰時でさえ――
 承久の乱のときには――
 すでに老い支度を始めてよい年齢でした。
 
 では――
 4代・執権となるはずであった泰時の跡継ぎは、どうであったか――
 
 泰時の跡継ぎは北条時氏といいました。
 
 承久の乱のとき――
 時氏は19歳――
 
 もちろん――
 現代の19歳とは、だいぶ意味合いが違いますが――
 それでも、「まだまだ人生これから……」といってよい時期でした。
 
 さらに見逃せないことは――
 2代・義時も3代・泰時も、実は跡継ぎではなかった点です。
 
 のちに起こる政権闘争に勝った結果――
 あたかも跡継ぎであるかのように、執権の職を引き継いだだけで――
 決して執権の職が約束されていたわけではなかったのですね。
 
 義時も泰時も――
 いわば、
 
 ――執権になりたくてなった。
 
 ということになります。
 
 が――
 時氏は違います。
 
 執権の職が約束されていました。
 
 いわば、
 
 ――好むと好まざるとに関わらず、執権にならなければならなかった。
 
 のです。
 
 その重圧は――
 父や祖父とは比べものにならなかったでしょう。
 
 この精神的ストレスが、時氏の免疫力を弱め、ウイルス感染や細菌感染を繰り返し、寿命を徐々に縮めていったのではないか――
 と、僕は考えています。
 
 少なくとも――
 そのように考えれば、北条氏が4代目以降、短命であった事実を巧く説明できるでしょう。
 
 3代目・泰時の跡継ぎであった時氏は――
 北条氏が承久の乱を勝ち抜いて以降――
 最初の、
 
 ――約束された執権
 
 であったのです。
 
 以降――
 滅亡時の高時まで、基本的には同じ構図が繰り返されていきます。
 
 北条氏の本家の当主やその跡継ぎたちが、のきなみ短命であったのは――
 この“約束された執権”による重圧のためでしょう。
 
 もちろん、“約束された執権”がもたらしうるのは、精神的な重圧だけではありません。
 
 ――暗殺のリスク
 
 もあります。
 
 ひょっとすると――
 北条氏本家の歴代の跡継ぎたちは、幼少の頃から、穏和な毒物などを盛られていたのかもしれません。
 
 承久の乱によって政権の機能を完全に奪われた京の朝廷が――
 遠大な復讐劇を企てたのかもしれません。
 
 あるいは――
 京の朝廷の思惑などとは無関係に――
 北条本家の歴代の跡継ぎたちは、将来の執権の激務に耐えうる頑強な肉体を手に入れようと、自ら進んで秘伝の妙薬を摂取していて――
 それが、不幸にして、現代の薬学では毒物と考えられる代物であった――
 ということかもしれません。