マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

北条氏のこと(8)

 鎌倉期の北条氏のことを――
 思いつくままに書き連ねていたら――

 いつのまにか――
 タイトルが、

   北条氏のこと(8)

 になっていました。

   (8)

 というのは――
 いくら何でも多すぎですね。

 そろそろ、やめようと思いますが……(苦笑

 ……

 ……

 日本史における鎌倉期の北条氏の印象は――
 概して――
 陰湿で、凄惨です。

 承久の乱で京の市街地を大混乱に落としいれていますし――
 本家の当主やその跡継ぎの多くが若死にをしていますし――
 元寇は何とか乗り切ったものの、その後の内政の混乱を防げずに――

 最期は――
 全国の武家から総スカンをくらって――
 本拠地・鎌倉の防衛戦に敗れて一族郎党、壮絶に自死を遂げています。

 そもそも――
 始まりから陰湿で凄惨な印象でした。

 2代執権・北条義時やその姉・北条政子は――
 実父である初代執権・北条時政を、政争の末、鎌倉から追放しているのですね。

 親子で一致団結をし――
 流人に過ぎなかった源頼朝を守り立て――
 鎌倉幕府の礎を築いたはずなのに――

 絵に描いたような骨肉の争いです。

 これほど、あからさまな“骨肉の争い”は――
 なかなか、みられるものではありません。

 ですから、

 ――鎌倉時代は、どうも好きになれない。とくに執権の北条氏が出てきてからは、いま一つ興味がもてない。

 という向きは少なくないのですが――

 そんな陰湿で凄惨な北条氏の興亡も――
 たった一人の女性の、

 ――恋

 から始まっていると思えば――

 少々――
 趣は変わってきます。

 鎌倉期の北条氏による執権政治は――
 北条政子源頼朝に恋をしなければ――
 存在しえませんでした。

 ひょっとすると――
 鎌倉幕府それ自体、存在しなかったかもしれません。

 ……

 ……

 北条政子源頼朝に嫁ぐことを――
 当初――
 父・北条時政は、かたくなに拒んだといいます。

 罪人であった源頼朝と姻戚になることで――
 ときの政権からにらまれることを恐れたといわれますが――

 ふつうに――
 父親として――
 婿の年齢が気に入らなかった可能性もあります。

 源頼朝北条政子の10歳年上でした。

 当時の推定平均寿命は――
 4日前の『道草日記』でも述べたように――
 35歳――

 35年の生涯が当たり前の時代における10の年齢差は――
 現代における20~30の年齢差に感じられたことでしょう。

 父・時政の反対は――
 きわめて真っ当で常識的な反対でした。

 それを押し切って――
 政子は頼朝のもとへ駆け落ち同然に嫁いだといいます。

 ときに――
 北条政子、21歳――
 源頼朝、31歳――

 ――恋は盲目

 とは――
 このことでしょう。

 2人の年齢が――
 ちょっと引っかかるところです。

 当時の婚期としては――
 破格の遅さなのです。

 現代でいえば――
 さしずめアラフォー女子が還暦間近の男と駆け落ちをするような凄みがあります。

 が――
 そこは、やはり――
 21歳&31歳のカップルとみてあげましょう。

 だって――
 たしかに21歳と31歳とであったのですから――(笑

 ……

 ……

 とにもかくにも――

 そんな真っ当な常識論を突き抜けたカップルから――
 鎌倉期の北条氏の物語は始まっているのです。