マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

北条氏のこと(7)

 鎌倉幕府3代執権・北条泰時は、実は源頼朝落胤かもしれない、という話を――
 きのうの『道草日記』で紹介しました。

 もし、そうだとしたら――
 いくつかの疑問が腑に落ちるのですね。

 1つは――
 なぜ北条氏の事実上の簒奪を鎌倉幕府武家らは許せたのか――
 という疑問です。

 鎌倉幕府を支えた武家らは、

 ――御家人

 と呼ばれます。

 この言葉は、本来は「ご家来」ほどの意味で――
 尊称の「御」は、御家人の主であった源氏への敬意を示します。

 北条氏も御家人でしたから――
 北条氏の事実上の簒奪を他の御家人らが心穏やかに許せたとは考えにくい――

 もちろん、許せなかった御家人もいて――
 彼らは、ことごとく北条氏によって排除されていったのですが――

 見逃せないのは――
 北条氏を支えた御家人が数多くいた――
 という事実です。

 彼らは、なぜ北条氏を支えたのか――なぜ北条氏の簒奪を許せたのか――

 もし――
 北条泰時源頼朝落胤であるという話が広まっていたのなら――
 理由は簡単です。

 ――まあ、そういうことなら、許してもよいか。

 と――
 わりと容易に簒奪の理不尽を容認しえたでしょう。

 一方――
 他の疑問として――
 北条義時が、源頼朝の死後、人が変わったように政敵を排除していったのは、なぜか――
 という点が挙げられます。

 北条義時は、温厚篤実な人柄で、深い教養があったとされています。

 が――
 源頼朝の死後、敵対する有力御家人らを狂ったように次々と苛烈に追い詰めていきました。

 これについても――
 北条泰時源頼朝落胤であると考えれば――
 腑に落ちるのですね。
 
 北条義時の豹変は、我が子のためではなく、亡き主の遺児のためであった――
 それゆえにこそ、何ら後ろめたさを感じることなく、政敵を排除し続けることができた――
 そう考えることができます。

 ……

 ……

 北条泰時は、本当に源頼朝落胤であったのでしょうか。

 こうした類いの話は、文献には残りにくいものですから――
 後世の僕らは、ただ想像をたくましくするしかありません。

 ただし――
 次の問いは――
 なかなかに興味深く感じられます。

 すなわち――
 もし本当に北条泰時源頼朝落胤であったとしたならば――
 そのことを――
 当の泰時は知っていたのでしょうか。

 ……

 ……

 僕は、
(知らなかったのではないか)
 と思っています。

 もちろん――
 泰時が頼朝の遺児であると同時代人が疑っていたことは――もし本当に疑っていたのなら――知っていたでしょうが――

 事の真偽は、当人にとっても、不明であったに違いありません。

 この種の事の真偽は――
 タイムマシンでもなければ――
 当人には決して確認のしようのないことです。

 では――
 誰が事の真偽を知っていたのか――

 ……

 ……

 北条義時は知っていたでしょう。

 ひょっとしたら――
 北条政子も、あとで気づいたかもしれない――

 が――
 確証は持てなかったでしょう。

 僕は、
(最後は北条義時が一人で墓場まで持っていったのではないか)
 と思っています。

 義時は――
 当の泰時に問い質されても――
 素知らぬ体を装ったに違いありません。

 ……

 ……

 「父上――」

 「おお、泰時か」

 「つかぬことを伺います」

 「何か」

 「私の……まことの父君は、どなたでございますか」

 「……」

 「口さがない者どもが、あれこれ申しております」

 「それは、私も聞いておる」

 「父上は真偽をご存じでは?」

 「……それを知って何とする?」

 「……」

 「たとえ、口さがない者どもの申す通りであったとしても、そなたの父が私であることに変わりはない」

 「……」

 「そのことは、以後、二度と口に出さぬがよかろう」

 「はぁ!」

 そんな会話が――
 2人の間で交わされていたかもしれません。