マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

濡れた知性は印象論

 ――乾いた知性・湿った知性・濡れた知性

 ということを――
 僕は、一昨日からの『道草日記』で、盛んに述べていますが――

 これら知性の“湿気”が何を意味しているのかといえば――
 それは、

 ――主観性ないし主観的要素

 です。

 乾いた知性とは、客観的であり――
 濡れた知性とは、主観的であり――
 湿った知性とは、その折衷ということですね。

 もちろん、

 ――主観とは何か、客観とは何か。

 というのは哲学上の大きな問いであり――
 そんな難題は、ここでは相手にしません。

 ここでいう「主観」「客観」というのは――
 そんな厳密な意味ではなくて――
 日常会話で用いる意味です。

 誤解を恐れずにいえば、

 ――情緒

 とか、

 ――情念

 とかいった言葉と結びつく主観ですね。

 そのような意味で主観的なのが――
 濡れた知性であり、湿った知性です。

 いわゆる学問を実践するための知性は――
 ほとんどが乾いた知性でしょう。

 たぶん、経済や政治などの社会的活動に要する知性も――
 乾いた知性です。

 一方――
 濡れた知性や湿った知性は――
 基本的には、娯楽に根差します。

 グルメは湿った知性の典型でしょう。
 スポーツ観戦論も湿った知性といえるかもしれません。

 そして――
 恋愛論や色気論などは濡れた知性の典型です。

 そのような意味で――
 濡れた知性や湿った知性は、

 ――基本的には印象論

 といえます。

 とくに――
 濡れた知性は、

 ――徹頭徹尾、印象論

 です。