マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「濡れた知性」の出どころ

 ――“生物種の維持に必要な欲望”に根ざした知性

 を、

 ――濡れた知性

 と呼んだら、ひんしゅくを買った――
 という話を――

 きのうの『道草日記』で述べましたが――

 ……

 ……

 僕は――

 この“濡れた知性”が――
 あえて、そう呼びますけれど――
 とても重要だと思っています。

 ……

 ……

 ――重要だ。

 というのとは――
 ちょっと違うかもしれません。

 フェアにいうならば、

 ――面白い

 でしょうか。

 ……

 ……

 もちろん――
 「濡れた知性」というのは、簡単にいってしまえば、

 ――性的な関心によって駆り立てられる知性

 ということなのですが――
 その定義は、あくまで、

 ――“生物種の維持に必要な欲望”に根ざした知性

 ですから――
 例えば、進化論に関わる知の営みも「濡れた知性」であるわけです。

 ――性的な関心だけに基づく知性

 というわけでも、ないのですね。

 ……

 ……

 そもそも、「濡れた知性」なんてアイディアを思いついたのは――

(グルメというのは、何となく中途半端ではないか)
 といった疑念にとりつかれたからでした。

 ――グルメ

 というのは、仏語の「gourmet」――つまり、「食通」とか「美食家」を指す「グルメ」のことです。

 今にしても思えば――
 若気の至りといえましょう。

 ふた昔前のマル太は、

 ――グルメは知性として中途半端である。それは、食欲が人の欲望として中途半端だからだ。食欲は生物種としてのヒトの個体を司る欲望ではあるが、生物種の全体を司る欲望ではない。そのような欲望として重要なのは性欲である。

 そう考えたのですね。

 こうした考えによって――

 まずは――
 一般的な知性を、

 ――乾いた知性

 と呼び――
 それと明瞭に区別するために――
 グルメを、

 ――湿った知性

 と呼び――
 その「湿った」の程度を強めるつもりで――つまり、「湿っている」を通りこして「濡れている」という意味で、

 ――濡れた知性

 と呼んだのですが――

 ……

 ……

 まあ、ふつうは――
 もう少し違う意味でとりますよね。

 今のマル太には――
 それが、わかります。