マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

恋愛や色気を論じても空回りしない

 理論や理念に頼らず、あえて情緒や情念に頼って――
 恋愛や色気などを論じるのが濡れた知性である――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 理論や理念に頼らないのですから――
 濡れた知性は、

 ――相手を説きふせ、強制的な了解を引きだす。

 ということには関心がなく――
 もっぱら、

 ――相手に語りかけ、自発的な共感を引きだす。

 ということに関心があります。

 当たり前です。

 そうでなければ――
 恋愛や色気をいくら本気で論じたところで、まるで面白くない――

 ……

 ……

 人は――
 強制了解を求められると、かえって、

 ――あなたはあなた、わたしはわたし

 と思いたがるものです。

 一方――
 自発共感を求められると、かえって、

 ――あなたのそれ、わたしにもわかる

 と思いたがるものです。

 強制了解を狙って――
 「あなたはあなた、わたしはわたし」の視線にさらされながら論じても、疲れるだけです。

 自発共感を誘って――
 「あなたのそれ、わたしにもわかる」の眼差しを受けながら論じると、よい感じで力が抜けていきます。

 その“力の抜けていく感じ”こそが――
 濡れた知性の真骨頂です。

 この特質ゆえにこそ――
 恋愛や色気を論じたとしても、空回りしないで済むのです。

 おそらくは――
 情緒や情念の“湿り気”が、適度な摩擦になるのでしょう。