マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

大切なのは夢の分析ではなく

 夢の分析は、任意の了解を促すだけであって――
 例えば、自然科学のように、普遍の了解を強いるものではない――
 といった主旨のことを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 つまり――
 夢の分析のことを、僕は、よくいえば、大らかに――わるくいえば、軽く――考えている――
 ということです。

 よって――
 例えば、おとといの『道草日記』で触れたような夢をみたときには――

 その分析を――
 とりあえず、
(何となく……)
 試みることはあります。

 試みて――

 その結果の暗示する内容が――

 それなりに受け入れやすいものなら、
(まあ、そんなもんだろ)
 と思い――

 とうてい受け入れがたいものなら、
(そんなわけ、ないだろ)
 と思います。

 まあ、

 ――いいかげん。

 といえば――
 いいかげんですね。

 このような“いいかげんさ”が――
 夢の分析には欠かせない、と――
 僕は考えています。

 厳密な態度で臨むと、

 ――夢は窮屈――

 です。

 ……

 ……

 僕は、

 ――夢は記憶に依存している。

 との仮定を受け入れています。

 そして――
 それ以外の仮定は受け入れていません。

 例えば、

 ――潜在的な願望

 とか、

 ――無意識的に

 とかいった概念を扱う仮定は――
 あえて受け入れません。

 夢は、単に記憶に依存しているだけであって――
 その記憶の内容は、願望に関係するものも関係しないものも、あるいは、意識的なものも無意識的なものも混在しているに違いありません。

 ……

 ……

 以上を踏まえると――

 夢は、

 ――内省の契機

 には適しているといえます。

 夢をみたことによって、
(あ、そういえば、あのこと、どうなってたっけ?)
 とか、
(ちょっと考え方を変えたほうがいいかも……)
 とか――

 ……

 ……

 そのような“契機”以上のことは、
(期待しないに限る)
 と思います。

 人として大切なのは――
 夢の分析ではなくて――

 内省のはずです。