マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

夢の分析は任意の了解を促す

 いわゆる夢の分析は――
 たいてい、

 ――夢は、その夢を報告する本人の潜在的な願望を反映している。

 との仮説に依ります。

 むしろ――
 このような仮説に依らない限り、何か意味のありそうな主張をするのは困難――
 というのが、正直なところでしょう。

 いわゆる夢の分析の信憑性は――
 こうした仮説を、自然な前提とみるか、不自然な仮定とみるかで決まってくると、いってよいでしょう。

 もし――
 不自然な仮定とみるならば――

 より自然な仮定を模索し――
 例えば、次のような仮説を見出すでしょう。

 ――夢は、その夢を報告する本人の記憶に依存している。

 ……

 ……

 ここでいう「記憶」とは――

 当然ながら――
 “本人が意識的に想起しうる記憶”と“無意識的に保持しているだけで、意識的には想起しえない記憶”との双方を含みます。

 よって――
 この仮説をあえて「潜在的な願望」という言葉を用いて書き換えるならば、

 ――夢は、その夢を報告する本人の潜在的な願望を反映したり、顕在的な願望を反映したり、あるいは、それら双方の願望をまったく反映しなかったりする。

 となります。

 およそ「仮説」とはいいがたい――曖昧模糊な命題となってしまいましたね。

 この曖昧さこそが、
(良い意味でも悪い意味でも、夢の分析の本質である)
 と、僕は考えています。

 前提にする仮説が曖昧模糊であるがゆえに――
 夢の分析がもたらす知見も曖昧模糊であるのは、当然です。

 自然科学では、実験や観察に基づく仮説の検証を経て、新たな知見が明示され――
 その明示が、人々に論理的ないし非主観的な了解を強いますが――

 夢の分析は――
 そうした自然科学の営みとは、わけが違います。

 夢の分析では、夢の内容が他の事例と比較・検討され、何らかの解釈が暗示され――
 その暗示が、人々に感覚的ないし主観的な了解を促します。

 その促しを受け入れるか受け入れないかは――
 促された本人が任意で決めてよいのです。