マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

照れない学者には○○○○がある

 ――「カリスマ」とは照れないことである。

 ということを――
 3日前から『道草日記』で繰り返し、述べましたが――

 それで――
 思い出したことがあります。

 ――学者のカリスマ

 です。

 父が学者であったので――

 僕の場合――
 学者は、子どもの頃から、身近な職業でした。

 一般に――
 学者は、人前で話をすることが多いのですが――
 人前といっても、同業の専門家を相手に話をすることが、ほとんどでして――

 そうでない人たちの前で話をすること――つまり、一般向けの講演をすること――は、

 ――億劫

 という人が少なくありません。

 何が億劫かというと――
 学問の話を丁寧に噛み砕いて説明をするのが億劫らしいのです。

 ふだん、同業の専門家だけを相手に、いきなり込み入った内容で話し始めるのが習慣になっているので――
 丁寧に噛み砕いて説明をするということが、

 ――どうにも恥ずかしくなる。

 というようなことを――
 ある学者が告白していました。

 が――
 なかには、丁寧に噛み砕いて説明をするということを、まったく恥ずかしがらない人もいます。

 同業の専門家だけを相手に話をするときと同じように――
 聴衆の心に響く手法で、的確に説明をこなします。

 そういう学者は――
 つまりは、

 ――照れない。

 のですね。

 もちろん――
 一般向けの講演と同業の専門家だけを相手にする講演とでは――
 話す内容は全く違ってきます。

 話す内容だけでなく、用いる言葉からして違ってきます。

 そういう学者に“学者のカリスマ”が感じられるのは――
 ごく自然なことです。

 まさに、

 ――照れない学者にはカリスマがある。

 といってよいでしょう。

 ……

 ……

 先日――
 あるノーベル賞受賞者が行った一般向け講演の報告文を読みました。

 その受賞者は、同業の専門家を相手に話すときには躊躇されるに違いない基本的な事項を――
 実に丁寧に噛み砕いて説明していました。

 あくまで報告文を読んだだけです。
 講演の場に実際に立ち会ったわけではありません。

 が、
(この講演者は、まったく照れていなかったに違いない)
 と――
 僕は感じました。