マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

カリスマの恐ろしさ

 カリスマは――
 一般的には、素晴らしいものだと思いますが――
 同時に――
 ある種の恐ろしさもあります。

 僕が4日前から『道草日記』で繰り返し、述べているように、

 ――「カリスマ」とは照れないこと

 と考えられますが――

 たんに「照れない」ということだけで、ある程度のカリスマが演出できてしまうというところに――
 カリスマの恐ろしさがあります。

 ……

 ……

 むかし、ヨーロッパのほうに、

 ――中身のない演説ほど、大衆を熱狂させる。

 と指摘した政治家がいたそうですが――

 その真偽はともかく――

 大衆を熱狂させる上で必要なのは、“中身がないこと”ではなく、“照れないこと”であるに違いありません。

 演者が照れていては、誰も熱狂しないでしょう。
 
 照れる素振りを一切みせず、終始、堂々と演説をする――中身のない演説をする――さも中身があるかのように見せかけて――

 たった、それだけのことで――
 ときに、なぜか、それらしいカリスマを醸成できてしまう――

 そのことに――
 僕ら有権者は十分に警戒をしたほうがよいでしょう。