カリスマという性質は――
当人が、
――照れない
ことによって初めて醸成されうる性質であると――
僕は考えていますが――
もちろん――
この“照れない”は必要条件に過ぎず――
ただ照れないというだけで真のカリスマが醸成されるわけではありません。
端的にいうと――
カリスマは、
――“格好いい”と“頼りない”との間
にあるといってよいでしょう。
“格好いい”だけではダメ――自分とは別の次元の人物に、人はカリスマを見出しません。
一方――
“頼りない”だけでもダメ――不安や心配の種となる人物に、人はカリスマを見出しません。
“格好いい”と“頼りない”との両方がそろっていないと――
そして――
そんな自分を恥ずかしがる様子が微塵もない――つまり、“照れない”――
これら3つがそろうことで、ようやく――
カリスマは醸成されるのではないか、と――
僕は思っています。
ただし――
“照れない”は、ともかく――
“格好いい”や“頼りない”は、きわめて主観的な人物評です。
仮に今、
カリスマ = 格好いい + 頼りない + 照れない
という等式が成り立つとして――
この等式が示すことは――
カリスマの醸成に寄与する因子は――
その大部分が――
カリスマを感じさせる当人の資質ではなく――
カリスマを感じとる周囲の人々の主観である――
ということです。
つまり――
周囲の人々が当人の資質を見誤ってしまえば――
カリスマは、間違った形で、容易に、醸成されてしまうのです。
きのうの『道草日記』で触れた、
――カリスマの恐ろしさ
の出どころも――
たぶん、その辺にあるのでしょう。