恋には、
――現実の恋
と、
――虚構の恋
とがある――
といったら――
――何のこっちゃ?
と訝(いぶか)る向きは――
少なくないでしょう。
――「現実の恋」も「虚構の恋」も、言葉の意味としては、あまりにも曖昧で、よくわからない。
との批判も集まりやすい――
……
……
たしかに、
現実の恋 = 現実の日常における恋
虚構の恋 = 虚構の物語における恋
との定義で議論を始めることはできますし――
実際に――
そのような論考を数多く見聞きしますが――
ここで僕がいっている「現実の恋」や「虚構の恋」は――
そういう定義をとりません。
では――
どういう定義をとるかというと――
……
……
現実の恋 = 生殖が実現される可能性のある恋
虚構の恋 = 生殖が実現される可能性のない恋
という定義です。
もちろん――
きのうまでの『道草日記』で触れてきた、
恋 ≒ 生殖欲求
の図式――
すなわち、
――恋とは、特定の人との間に子孫を残したいと感じる生殖欲求である。
を踏まえています。
どういうことか――
……
……
例えば――
その“特定の人”が――
日常の暮らしの中に存在していれば、それは“現実の恋”であり――
日常の暮らしの中に存在していなければ――例えば、小説や映画やマンガやゲームの中にしか存在していなければ――それは“虚構の恋”であるのは、もちろんのことですが――
仮に――
その“特定の人”が――
日常の暮らしの中に紛れもなく存在していたとしても――
その“特定の人”との間での生殖が実際に実現できそうでなければ、それは“虚構の恋”である――
ということです。
……
……
つまり――
僕がいう「現実の恋」や「虚構の恋」は、
――生殖欲求の対象である“特定の人”との間での生殖の実現性
に依存している――
ということですね。
そして――
依存しているのは――
そうした生殖の実現性のみであって、
――他の要素には、まったく依存していない。
ということでもあります。
……
……
このように定義をしておけば――
少なくとも言葉の意味としては――
そんなに曖昧ではなくなります。