マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

死や恋が奇抜な虚構感を放つとき

  恋 ≒ 生殖欲求

 の図式を導入すると、

 ――死

 と、

 ――恋

 とが結び付く――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 「死」も「恋」も――
 人にとっては、抜き差しならない観念ですが――

 それは――
 古今東西あらゆる物語の中で――
 これら2つの観念が重要な役割を果たしてきていることからも――
 よくみてとれます。

 ……

 ……

 ここで――
 もう一度、きのうの『道草日記』で触れた2つの命題について――
 考えてみましょう。

 すなわち、

  死を意識する ⇒ 恋が激しくなる

 と――
 その待遇である、

  恋が激しくならない ⇒ 死を意識しない

 との2つ命題です。

 現実の「死」や「恋」は――
 これら2つの命題にかなった様相を呈するといわれます。

 例えば――
 災害や戦禍などで死と隣り合わせの生活を送っている人々は――
 そんな過酷な環境にあってなお――
 自身の生殖欲求を満たそうと躍起になるものだといいます。

 また――
 自身の生殖欲求を満たすことに容易に関心をもてない人々は――
 いつかは死ぬ身であることを――
 あたかも忘れたかのように暮らしてしまいがちだといいます。

 そのような死や恋を物語の中で描くとき――

 その物語は――
 強固な現実感を帯びます。

 ――そんなふうに死ぬ人、たぶん実際にいるよね。

 とか、

 ――そんな恋の仕方も、世の中、きっとあるよね。

 とか――

 ……

 ……

 強固な現実感を演出したいのなら――
 そんなふうに死や恋を物語の中で描けばよいのですが――

 もっと奇抜な虚構感を演出するのなら――
 多少なりとも違った描き方をする必要があります。

 それは、

  死を意識する ⇒ 恋が激しくなる

 でも、

  恋が激しくならない ⇒ 死を意識しない

 でもない描き方――
 例えば、

  死を意識する ⇒ 恋が激しくならない

  恋が激しくなる ⇒ 死を意識しない

 に適(かな)う描き方です。

 具体的には――
 片思いの相手を恋敵の戦友に譲って死地に赴く戦士を描くとか――
 恋人を思うあまり死をも恐れずに危険な旅に出る若者を描くとか――

 いずれも通り一遍ではありますが――
 定型の登場人物として、しばしば描かれます。

 ……

 ……

 ――そんな、お人よしの戦士なんて、どこにもいないから……!

 や

 ――そこまで向こう見ずな若者なんて、いるわけないから……!

 といった指摘をされてもなお――
 これら“戦士”や“若者”が物語の登場人物の定型でありうるのは――

 それらの放つ奇抜な虚構感が――
 十分に強烈だからです。