マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

死顔に恋慕を募らせる

 死や恋を、

  死を意識する ⇒ 恋が激しくなる

  恋が激しくならない ⇒ 死を意識しない

 に適(かな)う描き方で扱うと――
 物語は強固な現実感を放ち――

 そうでない描き方――
 つまり、

  死を意識する ⇒ 恋が激しくならない

  死を意識しない ⇒ 恋が激しくなる

  死を意識しない ⇒ 恋が激しくならない

  恋が激しくなる ⇒ 死を意識しない

  恋が激しくなる ⇒ 死を意識する

  恋が激しくならない ⇒ 死を意識する

 に適う描き方で扱うと――
 物語は奇抜な虚構感を放つ――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 このような枠組みの中で考察したくなる主題として、

 ――死顔に恋慕を募らせる。

 という物語の定型的要素――
 があります。

 『源氏物語』が、そうですね。
 主人公・光源氏の嫡男・夕霧のエピソードです。

 夕霧は、父・光源氏とは違い、恋に奥手なのですが――

 なぜか――
 父の最愛の妻・紫の上に懸想をしてしまいます。

 気配を察した光源氏は――
 息子を決して紫の上に会わせようとしません。

 ようやく会わせたのは――
 紫の上が40歳すぎに病をえて亡くなったあとです。

 その死顔は――
 夕顔にとって、

 ――この世のものとは思えぬほどに美しかった。

 とされています。

 ……

 ……

 さて――

 この夕霧のエピソードが放っているのは、“強固な現実感”と“奇抜な虚構感”と――
 どちらでしょうか。

 ……

 ……

 人の死の現実を知っている人は、

 ――“奇抜な虚構感”に決まっている。

 と考えるでしょう。

 現実の死顔は――
 死に伴う生物的な変化などが影響し――
 なかなか「美しい」とか「美しくない」とかいった審美基準には、なじみにくいものです。

 少なくとも僕は――
 死顔に『源氏物語』の夕霧のような恋慕を募らせた事例を――
 現実の世界の中には見出せません。

 が――
 虚構の世界の中には――
 いくらでも見出せそうな気がします。

 虚構の世界の中では――
 死に伴う生物的な変化などを都合よく省略できるからです。

 よって、

 ――死顔に恋慕を募らせる。

 が放っているのは――
 一見、“奇抜な虚構感”のほうに思えるのですが――

 ……

 ……

 実際には、“強固な現実感”のほうなのですね。

 なぜ、そういえるのか――

 ……

 ……

 それは、

 ――死顔に恋慕を募らせる。

 の物語では――
 死や恋が、

  死を意識する ⇒ 恋が激しくなる

 に適う描き方で扱われているからです。

 ……

 ……

 もう少し詳しく、みていきましょう。

 まず――
 死顔を目の当たりにしているのですから――

 その死顔の“死”を通し――
 自身の死も、おのずから意識されているはずです。

 そして――
 死顔に恋慕を募らせているということは――

 つまりは――
 その死顔の持ち主に激しく恋をしている、ということにほかなりません。

 よって、

 ――死顔に恋慕を募らせる。

 が“強固な現実感”を放ちうるのは――
 死や恋が、

  死を意識する ⇒ 恋が激しくなる

 に適う描き方で扱われているからです。

 ……

 ……

 もちろん――

 死に伴う生物的な変化などを都合よく省略している側面は――
 決して看過できません。

 が――

 そのようなことは――
 人の死の現実を知らない人にとっては些事に違いありません。

 夕霧のエピソードについていえば――

 このエピソードを――
 作者・紫式部は、人の死の現実をよく知らないで書いている、と――
 僕は考えています。

 このことは――
 作者同様、読者たちも、人の死の現実をよく知らないでいれば――
 とくに問題にはならないはずです。

 『源氏物語』の最初の読者たちは、平安期の貴族社会の住人たちでした。

 人の死の現実をよく知らなかったとしても――
 不思議はありません。