マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

僕が色気に興味をもったのは

 色気について――
 僕は――
 なぜか『道草日記』で繰り返し述べています。

 以前から、
(色気について、ちょこちょこ書いてるよな)
 との自覚はあったのですが――

 ためしに――
 この『道草日記』のサイトで検索をかけてみたら――

 なんと――

 ……

 ……

 30回を超えていました。

(たぶん10回くらいだろう)
 と思っていたのですね。

 ……

 ……

 もっとも――
 2006年からの12年で30回ですから――
 
 多いとはいえないのかもしれません。

 それは、ともかく――

 ……

 ……

 なぜ――
 僕は、

 ――色気

 について繰り返し述べているのか――

 ……

 ……

 どうやら――
 色気それ自体への興味ではなくて――

 ほかのことへの興味――もっと禍々(まがまが)しいことへの興味――
 が根底にあったようです。

 それは――

 ……

 ……

 ――猥褻(わいせつ)

 です。

 ……

 ……

 2006年7月25日の『道草日記』で――
 僕は、

 ――色気と猥褻と

 という題名で『道草日記』を書いています。

 以下に――
 全文を再掲します。

   *

 ――色気と猥褻(わいせつ)とを混同してはならない。

 という話をきいた。

(ああ、その通りだ)
 と思った。

 たしかに――
 色気と猥褻とは別物だ。

 似てはいるかもしれないが――
 厳に峻別すべきである。

 どういうことか。

 例えば――
 女優が淫らな濡れ場を演(や)るときに、その姿体に色気はないということである。

 色気は、むしろ、その幕間にこそ放たれる。
 濡れ場を終えた女優が、次の演技に備え、そっと身を休めているときにこそ、色濃く放たれる。

 色気というのものは、けだし――理知的である。
 理知を通してのみ、鮮やかに感じとられうる。

 それでいて、一旦、感じとってしまったら、即座に猥褻へ吸い込まれる――そういう厄介な性質を、色気はもっている。

 少なくとも男にとっての色気とは、そうしたものではないか。

 さながら――
 白い百合が泥沼の岸辺に屹立せんが如き危うさに、彩られている。

   *

 以上です。

 ……

 ……

 当時の『道草日記』は、「~だ、~である」調で書いていました。

 何だか新鮮ですね。

 「~です、~ます」調のほうが新鮮だと思って――
 ここ10年ほどは――
 その語調で、ずっと書いてきたのですが――

 ……

 ……

 どしようかな。

 また「~だ、~である」調に戻してみようかな(笑

 ……

 ……

 話を元に戻します。

 僕が色気に興味をもったのは――
 かねてより、

 ――猥褻

 に興味をもっていたからのようです。

(色気と猥褻とは、何が違うんだろう?)
 との疑問が――
 色気への興味の根元にあったのですね。

 ……

 ……

(そうだったのか)
 と――
 深く感じ入りました。