マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

背徳と従徳との境界

 ――背徳

 を極めていけば――
 やがては、

 ――悪徳

 に行くつくであろうことは――
 ほぼ間違いないと思います。

 が――

(背徳を極めていくことに、そんなに意味はない)
 と――
 僕は思っています。

 意味があるのは、

 ――悪徳か美徳か。

 ではなくて、

 ――背徳か背徳でないか。

 です。

 きのうの『道草日記』で造った言葉を持ち出せば、

 ――背徳か従徳(じゅうとく)か

 ですね。

 ……

 ……

 悪徳も美徳も、
(一つの極論に過ぎない)
 と思っています。

 もちろん――
 極論を望むならば――

 18世紀フランスのサド侯爵が、そうであったように――

 たしかに――
 いつかは悪徳にも辿りつきましょう。

 が――

 そこに豊潤な“味わい”は、ないはずです。

 少なくとも――
 平均的な人間が感じとれる情緒的な何かは存在しない――

 ……

 ……

 その“何か”があるのは――

 少なくとも――
 ありそうなのは――

 ……

 ……

 ――背徳と従徳との境界

 です。

 例えば、

 ――学校の体育の水泳で、あなたは、気になる異性の体を、絶対にみないか、それとも、ついみてしまうか。

 です。