背徳と従徳(じゅうとく)との境界は、きわめて曖昧です。
背徳と従徳とは――
さながら連続体であるかのように、なめらかに連結されています。
が――
……
……
悪徳と美徳とは、そうではありません。
そもそも――
悪徳と美徳とは、境界を接していません。
悪徳と美徳との間には――
広大な真空体が満たされているのです。
よって――
例えば――
物語の紡ぎ手が――
一つの物語の中に悪徳と美徳との両方を描き込もうとすると――
物語の受け手は――
広大な真空体を繰り返し行き来させしむる必要があるのです。
これは大変です。
紡ぎ手には傑出の技量が求められますし――
受け手には強靭な耐力が求められます。
そんな物語は――
ふつうは成立しないはず……なのですが――
少なくとも一つ――
例外があります。
18世紀フランスの小説家・サド侯爵の物語です。
……
……
サド侯爵の物語は――
その猟奇的な性描写などの凄まじさが、しばしば意識されがちですが――
真の凄まじさは――
たぶん、そこにはありません。
では――
どこにあるかというと――
……
……
悪徳と美徳との両方が、たしかに描き込まれているところです。
もちろん――
それらの比重は、悪徳のほうに、だいぶ偏っていますよ。
が――
それでも、物語の要所要所で、しっかり美徳も書き込まれている――
サド侯爵は――
悪徳だけではなくて、美徳の何たるかも――
よく知っていたのですね。
そして――
何よりも忘れてはならないことは――
物語の紡ぎ手としてのサド侯爵には――
物語の受け手をして悪徳と美徳との間の広大な真空体を繰り返し行き来させしむるだけの技量があった――
ということです。
そんな傑出の技量を、もし、備えていなければ――
彼が歴史に名を残すことは、おそらくは、なかったに違いありません。