18世紀フランスの小説家・サド侯爵が歴史に名を残しえたのは――
悪徳と美徳とを自身の物語の中に巧みに描き込んだからである――
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
この2つの道徳的審美の極論――つまり、悪徳と美徳と――を1つの物語の中に落とし込めたところに――
つまり――
そのような離れわざを可能たらしめる物語構成に着眼しえたところに――
サド侯爵の非凡な才がみてとれるのです。
具体的には――
ジュリエットとジャスティーヌという2人のヒロインの生き様の対比――
悪徳を次から次へと体現していくヒロインと美徳を求め続けて受難を繰り返すヒロインとの対比ですね。
……
……
もう一つ――
失念すべからざる点があります。
それは――
サド侯爵の扱った悪徳や美徳は――
どちらも、
――生殖欲求
の関数に限ったものであったことです。
例えば、
――接触欲求
や、
――安息欲求
といった生物的・生理的欲求を切り捨てて――
あるいは――
そのほか数多の社会的・心理的欲求を切り捨てて――
ただ生殖欲求のみに執心しえたこと――
今風の言い方をすれば、
――ブレなかった――
こと――
それこそが――
サド侯爵を、
――性的加虐嗜好の祖
たらしめた最大の理由でしょう。
もちろん――
サド侯爵本人は――
生殖欲求に拘泥することが、おそらくは、あまりにも当たり前に感じすぎていて――
とくに意識はしていなかったろうとは思いますが――
……
……
たまに、
――背徳を扱わぬ物語など、物語ではない。
という言い方がなされますが――
サド侯爵の流儀をマル太風に言い換えれば、
――背徳は背徳であっても、生殖欲求の関数としての背徳を扱わぬ限り、物語ではない。
となります。