――愛国
――憂国
――救国
の危うさについて――
きのうの『道草日記』で述べました。
その危うさは、
――「国」という約束事の虚構性
に起因します。
では――
「愛国」や「憂国」や「救国」というのは、意味のない概念として切って捨ててよいのか――
といえば――
そうではありません。
……
……
――愛国
や、
――憂国
や、
――救国
にも現実はあります。
国の本態は、政治制度とか国家形態とかではありません。
その「国」という約束事に従って暮らしている人々の日常こそが、国の本態です。
よって、
――愛国
とは、
――その「国」という約束事に従って暮らしている人々を愛したり、その人々が暮らしている郷土を愛したりする。
ということであり、
――憂国
とは、
――その「国」という約束事に従って暮らしている人々の将来や、その人々が暮らしている郷土の未来を憂える。
ということであり、
――救国
とは、
――その「国」という約束事に従って暮らしている人々の生命や財産が危機に瀕しているときに、それらを救う。
ということです。
こうしたことを十分に踏まえるならば、
――愛国
も、
――憂国
も、
――救国
も――
どんどん使っていって構わない概念である、と――
僕は考えています。