マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

大学時代、試験に苦しんでた頃に、よく思ってたこと

 試験の理想は――
 実施者だけでなく、受験者も評価を下すことである――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 このことを述べたときに――
 僕は思わず苦笑していました。

 (大学時代、試験に苦しんでた頃に、よく思ってたことだ)
 と――
 すぐに気づいたからです。

 ……

 ……

 大学時代に限らず――

 僕は――
 試験には苦しみました。

 多肢選択式の問題――
 空欄補充式の問題――
 文章論述式の問題――

 (こんなの、いったい何の意味があるんだ?)
 と――
 真剣に詰りました。

 僕だけではないでしょう。

 もちろん――
 選択肢を選んだり、空欄を埋めたり、文章を連ねたりすること自体に、
 (何の意味があるんだ?)
 と思っていましたが――

 より真剣に思っていたのは――
 (なんで試験の実施者が一方的に評価するだけなのか)
 という不満です。

 (不平等だろう!)
 というわけです。

 ……

 ……

 およそ試験というものは――
 受験者に余計な精神的圧力をかけるものです。

 その精神的圧力を――
 当時の僕は、
 (理不尽だ)
 と思っていました。

 今も――
 思っています。

 (そういう理不尽は、ないほうがよい)
 とも思っています。

 では――
 どうするか――

 ……

 ……

 試験の仕方を根本的に変えるしかありません。

 それで思いついたのが、

 ――議論参加式

 ないし、

 ――企画関与式

 です。

 参考にしたのは――
 実社会での評価の仕方でした。
 
 実社会で、

 ――この人、できる!

 とか、

 ――あの人、すごい!

 とかと思われるのは――
 どういうときか――

 それは、

 ――懸案の議論が、誰かの提案によって、鮮やかにまとめられるとき

 あるいは、

 ――懸案の企画が、誰かの主導によって、速やかに動き出すとき

 ではないか――

 そうであるならば――
 議論や企画で試験をすればよい――

 そういう発想です。

 議論に参加するために準備をする――
 それが勉強です。

 企画に関与するために準備をする――
 それが勉強です。

 試験は――
 要は、

 ――どれくらい勉強をしたか。

 の評価です。

 本来は――
 その評価を――
 多肢選択式の問題や空欄補充式の問題、あるいは文章論述式の問題に託すことのほうに――
 無理があったように感じます。

 この無理こそが――
 受験者への余計な精神的圧力の出どころでしょう。

 よって――
 受験者の救済のためには――
 その無理をぜひとも取り除かなければならない――

 ……

 ……

 とはいえ――

 実際に試験の実施者の側に回ってみれば、容易にわかることですが――

 多肢選択式や空欄補充式、文章論述式の問題を使わないで試験を実施するのは――
 ものすごく大変なのです。

 膨大な手間と時間と人手がかかる――

 (このことにこそ、事態の本質がある)
 と――
 僕は思っています。