マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「無限」の魅惑の正体

 ――自分の目で確かめた物事しか信じない。

 と決めている人にとって――
 無限級数の結論は信じられないに違いない――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 例えば――
 日本史上有名な織田信長は――
 無限級数の結論を信じなかったであろう、と――

 ……

 ……

 「無限」の概念を導入し、何か結論を得る――
 という数学的な思考は――

 たぶん、

 ――現実からの僅かな遊離

 です。

 その“遊離”が――
 少なくとも、数学的な思考になじんだ人にとっては――
 面白いのですね。

 なぜか――

 ……

 ……

 もともと――
 数学的な思考は、

 ――現実からの僅かな遊離

 を前提とします。

 例えば、

 ――点

 といったときに、

 ――その「点」には大きさがない。

 ということを受け入れる必要がありますが――

 現実には――
 大きさのない「点」など、描きようがありません。

 あるいは、

  ○○○ ○○○ ○○○

 の個数を――
 1つの数字(アラビア数字)、

  9

 で表し、

  ○○○ ○○○ ○○○ ○

 の個数を――
 2つの数字、

  10

 で表すことに――
 現実的な必然はありません。

 強いていえば――
 人の手の指の本数が10であることから、何となく10進法が確立され――
 その10進法を採用する以上は、

  ○○○ ○○○ ○○○

 は、

  9

 であり、

  ○○○ ○○○ ○○○ ○

 は、

  10

 であるのですが――

 その10進法というのは、しょせんは人が決めたことですから――
 「9」と「10」との区別に現実的な必然はない――
 といえます。

 このようなことを称して――
 僕は、

 ――現実からの僅かな遊離

 といっているのですが――

 「無限」の概念の導入は――
 例えば、「点」や「10進法」の概念の導入よりも、“遊離”の程度が格段に高いように――
 僕には思えます。

 その、

 ――“遊離”の程度が格段に高いところ

 こそが――
 「無限」の面白みではないか、と――
 僕は思っているのです。

 ……

 ……

 現実からの僅かな遊離に慣れている数学の学習者にとって、

 ――ええ? そんなところまで遊離しちゃっていいの? すごいね!

 と思わせるようなことこそが――
 「無限」の魅惑の正体ではないか、と――
 僕は感じています。

 この魅惑をあっさり受け入れてしまうような人物に――
 例えば、日本の戦国時代を終わらせることは、できなかったでしょう。

 血を血で洗う戦(いくさ)の世の中は――
 たぶん、現実が全てです。

 そんな世の中を終わらせることができた織田信長が、「無限」の魅惑を受け入れたとは――
 僕には、とうてい思えません。