マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

別次元とはいいきれない理由

 気分の沈み込みや浮き上がりは――
 19世紀ドイツの哲学者ディルタイのいう「説明」の対象ではなく、「了解」の対象である――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。


 ――我々は、自然現象を説明し、精神生活を了解する。

 といった主旨のことを述べている――
 ということにも触れました。

 ……

 ……

 ディルタイのいう「了解」は――
 かなり主観的です。

 ――人によって判断の基準が違う。

 という意味で――
 大いに主観的です。

 よって――
 ある人の気分の沈み込みや浮き上がりについて――
 病的か否かの判断は、

 ――判断をする者によって、まちまちである。

 ということになります。

 おとといの『道草日記』で、

 ――病的な“気分の沈み込み”や“気分の浮き上がり”と、病的でない“気分の沈み込み”や“気分の浮き上がり”とを、明瞭に区別することは、不可能である。

 ということを――
 僕が述べたのは――

 この「了解」の主観性に依ります。

 明瞭に区別することが不可能であるのだから、

 ――両者が別次元であるとはいいきれない。

 という結論になるのです。

 つまり、

 ――鬱でない“気分の浮き沈み”と鬱とは、基本的には同じ次元にあるとみるのがよい。躁でない“気分の浮き上がり”と躁とも、同様である。

 ということです。

 もちろん――
 この結論は当座のものです。

 100年後や300年後には――
 違った結論になっているでしょう。