マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

病的なレベルか否かの判断

 気分の沈み込みや気分の浮き上がりのうち――
 病的なレベルのものを、それぞれ、

 ――鬱(うつ)

 ――躁(そう)

 と呼んでいる――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 では――

 病的なレベルか否かは――
 どうやって判断をするのか――

 ……

 ……

 実は、

 ――了解可能か否か

 で判断をします。

 「了解可能」とは、

 ――了解をすることができる。

 くらいの意味です。

 「了解可能」の意味の中核は、「了解」にあります。

 ――了解

 とは何か――

 ……

 ……

 簡単にいうと――
 あることを自分のこととして置き換えてみて、想像を巡らし、あるいは創造を凝らしてみて――
 それなりに理解をしたり、納得をしたり、共感をしたりすることができるような場合に、

 ――了解可能である。

 といいます。

 つまり――
 ある人の気分の沈み込みや浮き上がりと、それに至る過程とをつぶさに調べた上で――
 その過程と同じ過程が自分に降りかかった場合に、その気分の沈み込みや浮き上がりが了解可能であれば、

 ――病的ではない。

 と判断をし――
 了解可能でなければ、

 ――病的である。

 と判断をする――
 ということです。

 ……

 ……

 ――了解

 は――
 19世紀ドイツの哲学者ヴィルヘルム・ディルタイが提唱したとされる概念です。


 ――我々は、自然現象を説明し、精神生活を了解する。

 といった主旨のことを述べたといいます。

 つまり――
 気分の沈み込みや浮き上がりは、ディルタイのいう「説明」の対象ではなく、「了解」の対象である――
 ということです。