マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

得体の知れない不気味さがあった

 ――鬱(うつ)

 とか、

 ――躁(そう)

 とかいった言葉を――
 できる限り使わないようにしている――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 その理由についても――
 やや理屈っぽいことを述べました。

 ……

 ……

 正直なところをいえば――
 僕が「鬱」や「躁」をあまりに用いないのは――

 (好きじゃないから――)
 です。

 好きか嫌いかでいえば――
 たぶん嫌いなのだと思います。

 ……

 ……

 生まれて初めて「鬱」や「躁」という言葉を意識したのは――
 高校生の頃であったかと思います。

 (えらい難しそうな漢字だなぁ)
 と思いました。

 「躁」はともかく、「鬱」は難しそうでしょう。

 何といっても――
 画数が多い――

 そのあおりを受けて、「躁」まで難しそうに感じられるのです。

 当時は、

 ――躁鬱(そううつ)病

 といった言葉がよく使われていましたから――
 「鬱」の隣にあるだけで「躁」まで難しそうな漢字に思えてくる――

 画数だけではありません。

 その意味することも、よくわからない――

 少なくとも――
 高校時代のマル太には、よくわかりませんでした。

 一般に――
 人の心理を表す言葉は、どれも難しく感じられました。

 当時の僕は――
 物理や歴史のことに興味をもっていて――
 それなりに難しい物理の概念や歴史の用語に触れていました。

 それら概念や用語よりも――
 「鬱」や「躁」には、何だか得体の知れない不気味さを感じていました。

 なので――
 これら言葉に何となく苦手意識をもってしまい――

 ついには――
 嫌いになってしまったのです。