マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

その“対症療法”が“病的な体験”を本当に和らげているか否か

 ――“病的な体験”に対し、対症療法を十分に行う場合と不十分に行う場合とで、その後の経過に差が出る。

 との命題には幾つもの留保がつきまとう――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 最も深刻な留保は――

 きのう述べた通り――

 この命題の妥当性を厳密に示そうと思ったら、現に今“病的な体験”に苦しんでいる人たちの一部へ、あえて対症療法を不十分に行うということが避けて通れず――

 そのような試みは、

 ――非人道的

 との誹(そし)りを免れないために、ほぼ実行不可能である――

 ということです。

 

 ここまで深刻ではないものの――

 これ以外にも留保はあります。

 

 それは――

 その、

 ――対症療法

 が、たしかに“病的な体験”を和らげているといえるか否かが曖昧である――

 という留保です。

 

 ある人が“病的な体験”に苦しんでいるか否かは――

 その人の発言や行動から判断をされます。

 

 その人の“病的な体験”を他者が直に確かめることはできません。

 あくまで当人の主観的な体験として報告をされるか、あるいは、当人の発言や行動にみられる異常として客観的に――厳密には「間主観的」に――確認をされるかの、どちらかです。

 

 直に確かめられているわけではないので―― 

 その、

 ――対症療法

 が、“病的な体験”を本当に和らげているか否かが、実はよくわからない――

 

 極端なことをいえば―― 

 ひょっとしたら、“病的な体験”それ自体は、実は“対症療法”によって酷くなっているが、当人の発言や行動から推し量る限りは、和らいでいるようにしかみえない――

 という可能性でさえ、否定はできないのです。

 

 ここでいう、

 ――対症療法

 については、厳密に分類をすれば、様々な手法を挙げることができるのですが――

 現代の精神医療で中心となっているものは、

 ――薬物療法

 です。

 

 この“対症療法”は――

 おとといの『道草日記』でも述べたように、薬剤を用いて“病的な体験”の苦痛を和らげようとする手法です。

 

 が――

 この、

 ――薬剤

 というのが、実に厄介でして――

 

 それら“薬剤”は、たしかに、

 ――“病的な体験”を和らげている

 としか考えようがない変化をもたらすことは間違いないのですが――

 なぜ、そのような変化がもたらされるのかについては――

 実は、まったくわかっていないに等しいのですね。

 

 神経細胞のある部分にある作用をしているということは、わかっています。

 

 が――

 その部分にそのような作用をされると、なぜ、

 ――“病的な体験”を和らげている。

 としか考えようがない変化がもたらされるのかということについては――

 ほとんど何もわかっていないのです。

 

 ――“病的な体験”に対し、対症療法を十分に行う場合と不十分に行う場合とで、その後の経過に差が出る。

 との命題を扱うときには――

 こうした留保も念頭に置いておく必要があります。