――“病的な体験”の自然治癒の過程は深刻な危険性を孕(はら)んでいる。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
その危険性とは、
――新たな接続
の代替や、
――誤っていない接続
の強化が、脳を含む神経系の働きを、かえって酷く乱しかねない――
というものです。
おそらく――
今日のヒトの遺伝情報が何らかの制約をもたらしていて――
本来ならば、自然治癒の機序(mechanism)として最も望ましいはずの、
――誤った接続
の切断や無効化が起こりにくくなっている――
との予測にも触れました。
――誤った接続
の切断や無効化が望めないのであれば、
――新たな接続
の代替や、
――間違っていない接続
の強化をできる限り活かしていくより仕方がありません。
――最善
がダメなら、
――次善
で行くしかないのです。
今日の精神医学・精神医療が根底に据えているのは――
そうした発想です。
今日の精神医療の現場では――
聴こえるはずのない声や音を聴いたり、事実や論理に明らかに反する確信を抱いたりするなどの“病的な体験”に対しては、対症療法を基本としています。
具体的には、“病的な体験”がもたらす苦痛を和らげる薬剤を継続的に用いた上で、自然治癒を待つ――
という治療方針です。
ただし――
12月28日の『道草日記』で述べたように、完全な自然治癒に至る例は、ごくまれです。
たいていは、“病的な体験”が少なからず残るのです。
が――
対症療法を十分に行った場合と不十分に行った場合とでは、その後の経過に多少なりとも差が出るのですね。
精神医療の現場では――
発病後、早い段階から対症療法を十分に行うことで――
その後の“病的な体験”をしのぎやすくなることが経験的に知られているのです。
この経験的な事実は、対症療法が自然治癒を不完全ながらも促しているらしいとの示唆を与えます。
もし、対症療法が全く自然治癒を促していないのなら――
対症療法を十分に行おうが不十分に行おうが、その後の経過に差は出ないはずです。