マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

プロとアマとは「相補的である」――

 ――創作におけるプロとアマとの境界

 について――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――プロ

 と、

 ――アマ

 というふうに――

 これら2つの概念を並べてみると――

 何だかプロのほうがアマよりも、ずっと高尚で卓越をしているような印象を受けますが――

 

 実際には――

 そうとはいいきれません。

 

 そのことを如実に示す具体例が、

 ――外連(けれん)

 や、

 ――ケレン味

 であって――

 

 この演出は――

 必ずしもプロフェッショナル的な発想に基づいて施されるわけではなく――

 むしろ、アマチュア的な発想に基づいて施される――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べたのです。

 

 プロとアマとは決して対立的ではなく――

 むしろ、

 ――相補的である。

 と、みなすのがよい、と――

 僕は思っています。

 

 ――アマがプロを目指して技量を高めていく。

 というのは、ごく当たり前のことであり――

 きわめて大切なことですが――

 

 ――プロがアマを振り返って新たな境地を開く。

 というのも――

 それと同じくらいに、当たり前で、大切なことではないか、と――

 僕は思っています。

 

 このことは――

 創作に限った話ではありません。

 

 今から20年以上前のこと――

 

 日本のプロ野球からアメリカの大リーグへ活動の場を求めて移住を試みた選手の人たちがいました。

 その人たちは、アメリカへ渡る前は、日本のプロ野球で生計を立て、選手としての技量を研ぎ澄ませていたわけです。

 

 その恩義を忘れてアメリカへ渡ろうというのですから――

 少なくとも、プロフェッショナル的な発想からすれば――

 それは十分にアマチュア的な発想でした。

 

 が――

 そのようなアマチュア的な発想が、新たな境地を開いたのです。

 

 今では、日本のプロ野球からアメリカの大リーグへ移籍をすることが、ごく当たり前になっています。

 

 今から20年以上前に、日本のプロ野球選手の人たちが全員、プロ的な発想に徹していたら――

 こうした状況は決して生じていなかったはずです。