マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

解剖学者ないし解剖の専門家は、実は――

 ――解剖学は、生理学の手法としての解剖を、学問として体系づけたものである。

 といえる――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 これには――

 おそらく異論があります。

 

 ――解剖学

 は、本来、学問ではなく――

 たんに、

 ――解剖

 と呼ばれるのがよい――

 という考えです。

 

 ――解剖学

 は、英語では、

 ――Anatomy

 といいます――「ana-」は「完全に」で、「tomy」は「切ること」です。

 

 一方、

 ――生理学

 は、英語では、

 ――Physiology

 といいます――「physio-」は「物理の」で、「-ology」は「学」です。

 

 この「physio-」は、「patho-(病気の)」に対置をされうる概念であると解釈をすれば、「生理の」という意味になります。

 

 医学の世界で――

 しばしば冗談交じりに、

 ――解剖学(anatomy)は学問ではない。なぜならば、「-ology」が含まれていないからだ。

 といわれます。

 

 もちろん、

 ――ただの冗談

 で済ませることはできますが――

 

 案外、冗談ではないかもしれません。

 

 例えば、

 ――解剖学(anatmoy)は生理学(physiology)の手法の1つである。

 とみなせば――

 冗談ではなくなります。

 

 この場合には、「解剖学」という日本語は、もはや適切ではなく――

 たんに「解剖」と記すのがよいでしょう。

 

 つまり、

 ――解剖(anatomy)は生理学(phydiology)の手法の1つである。

 ということです。

 

 このように述べると――

 解剖学者ないし解剖の専門家が、まるで学者ではないかのように感じられますが――

 そうではありません。

 

 解剖学者や解剖の専門家は、

 ――実は生理学者なのである。

 という指摘なのです。