藤原道長(ふじわらのみちなが)は甥・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)に対し、ずいぶんと気を遣っていたらしい――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
なぜ道長は気を遣ったのでしょうか。
理由は三つくらい考えられます。
一つは、単純に、
――嫌われたくなかったから――
です。
道長は、甥・隆家について――
その能力の高さを認め、かつ、その人柄に漠然とした好感をもっていたように感じられます。
生まれ育った境遇が似ていることから親しみを感じてもいたのかもしれません。
甥・隆家には、その同腹の兄として藤原伊周(ふじわらのこれちか)がいて、甥・伊周は、その父である藤原道隆(ふじわらのみちたか)から、自身の後継者と目されていました。
道長自身にも、同腹の兄・藤原道隆がいて、兄・道隆は父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)から、自身の後継者と目されていて、実際に、父・兼家の死後、その後継者となりました。
道長には甥・隆家の気持ちが、よくわかったはずです。
が――
より重要なのは、残りの二つの理由です。
それらのうちの一つは、
――甥・伊周への牽制
です。
道長にとって、甥・伊周とは決して相容れぬ間柄でした。
甥・伊周は、同腹の兄・道隆から後継者に指名されていて、その遺志に反して自分自身が兄・道隆の後継者になろうとする以上、不倶戴天の存在でした。
加えて――
道長は、甥・隆家とは違って、甥・伊周の才能や人柄をそんなに高くは評していませんでした。
伊周は、学識や文才が当代随一と目されていて――
その知的能力の高さについては、道長も含め、誰もが認めていたようですが――
そのような能力と宮廷の貴族社会をしたたかに生き抜く能力とは別です。
その人柄に至っては、
――性格が幼稚であり、指導者には向かない。
とみていたようです。
些事に拘るあまり、周囲の者たちを苛立たせ、人々の反感を買いやすいと考えていたのではないでしょうか。
道長自身、甥・伊周には、ずいぶん苛立たされていたのではないかと想像をします――伊周と公衆の面前で激しく怒鳴り合うことさえ、あったようです。
そのような甥・伊周の言動に歯止めをかけるには――
その同腹の弟である甥・隆家を手懐ける必要がありました。
道長にしてみたら――
甥・伊周を抑えるために、甥・隆家とは仲良くやっていく必要があったのです。
さらに、もう一つ――
道長にとって決して見過ごせない理由がありました。
それは甥・隆家の、
――武人としての資質
です。
隆家自身に、武者――武力行使の実務者――としての実力は殆どなかったと考えられます。
当時、公卿たちの中にも弓の名手はいて、道長もその一人であったようですが――
隆家は、弓の上下さえもわからなかったといいます。
が――
隆家は、どういうわけか武者たちに好かれ、かつ武者たちを心服をさせうる資質がありました。
おそらく――
武者たちの気持ちがよくわかったのです。
あの花山(かざん)法皇(ほうおう)へ矢を射かけさせた事件――
隆家の従者は、他ならぬ隆家の命であったからこそ、覚悟を決めて矢を射かけたはずです。
伊周の命であったのなら、矢を射かける者はいなかったかもしれません。
命知らずの猛者たちを心から従わせうる資質は、道長にとって具体的な脅威であったに違いありません。
――あの甥を怒らせると、何をしでかすかわからぬ。
そんな警戒心を――
道長は終生、抱き続けたようです。