藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、骨肉の政争の予防を第一に考え――
藤原道長(ふじわらのみちなが)は、政権の首班の資質を第一に考えていたのではないか――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
道長が政権の首班の資質を第一に考えていたことは――
論をまたないでしょう。
道長は、兄・藤原道隆(ふじわらのみちたか)が酒にだらしのないところをみて、密かに苦々しく思っていたのではないでしょうか。
――たんなる廷臣の一人であれば見過ごせるが、政権の首班となれば、そうはいかない。
ということです。
その兄が亡くなりそうになって――
甥・藤原伊周(ふじわらのこれちか)が後を継ごうか、という段階にとなり、
――あの甥は、さらに輪をかけて不適任だ。
と思ったはずです。
――同じ失敗を繰り返してはならない。
では――
誰が適任か――
ひとまずは同腹の次兄・藤原道兼(ふじわらのみちかね)が、
――適任であろう。
と思ったことでしょう。
次兄・道兼は、あの花山法皇が出家をしたときに――
父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)に成り代わって出家を実行に移させた人物です。
――私も一緒に出家をします。
と噓をついて強引に連れ出したと伝わります。
その後――
父・兼家が亡くなる際に、自分が後継者に指名をされると思っていたところ――
長兄・道隆が指名をされたので、父・兼家を深く恨んだそうです。
父・兼家に代わって自ら汚れ役を引き受けたのに――
そのことを父・兼家が考慮に入れなかったことに我慢がならなかった――
と伝わります。
当時の天皇に対して平気で嘘をついたり、父への恨み言を隠そうともしなかったりするのは難点でしたが――
情に流されない決断や冷静で老成をした言動には一定の評価があったらしく――
そんな次兄・道兼が後を継ぐことに対し、道長は特に異論を挟まなかったようです。
――政権の首班をこなせないほどの難点ではない。
と、みたのではないでしょうか。
ところが――
その次兄・道兼は、政権の首班に就いた直後に病死をします。
関白として初めて出仕をしてから 7 日目の病死であったことから、
――七日関白
と揶揄をされたそうです。
では――
次をどうするか――
甥・伊周は、政権の首班の器ではない――
甥・隆家は、その器かもしれないが、当時、まだ数えで 17 歳――いくら何でも若すぎる――
――もはや自分しか残されていない。
政権の首班の資質を第一に考えた結果――
道長は、自ら政権を取りに行くと決めたに違いないのです。