マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(8)

 藤原道長(ふじわらのみちなが)は、甥・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)の、

 ――武人としての資質

 に、かなり警戒をしていたようである――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 隆家が、同腹の兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか)と同様に、地方の官職へ追いやられ――

 その翌年に赦され、京の都へ戻ってきたことは――

 すでに述べました。

 

 都へ無事に戻ってはこられても――

 一度は事実上の配流となった身ですから――

 以前の威風は、すっかり失せています。

 

 それでも――

 隆家の姉・定子(ていし)が天皇の正妻として後宮に控え、皇太子となりうる第一皇子を産んだので――

 兄・伊周ともども何とか有力な廷臣の体面を保てていました。

 

 が――

 その姉が第ニ皇女を産んだ直後に亡くなってしまうと――

 いよいよ隆家たちの劣勢は明らかでした。

 

 それより少し前に――

 叔父・道長の娘・彰子(しょうし)が、姉・定子と殆ど同格の正妻として、後宮に迎えられていました。

 

 道長が自邸の酒宴で隆家をわざわざ呼び寄せたのは、この頃のエピソードです。

 

 やがて――

 叔父・道長の娘・彰子が第ニ皇子を産むと――

 隆家たちの没落は決定的となります。

 

 その前年に――

 隆家たちが道長の暗殺計画を練っているとの噂が京の都に流れたそうです。

 

 道長は、甥・隆家の、

 ――武人としての資質

 を知り抜いていたはずなので――

 さぞや肝を冷やしたことでしょう。

 

 甥・伊周なら、ともかく――

 甥・隆家が道長の暗殺を本気で命じたならば――

 相当に手練れの暗殺者たちが、道長の身辺を繰り返し襲ってきたに違いありません。

 

 が――

 暗殺計画が実行に移された痕跡は確認をされていません。

 

 暗殺計画が本当に練られていたかどうかも、わかりません。

 

 ――道長を殺す!

 と息巻く兄・伊周を、

 ――今は時勢が悪い。

 と隆家が諭して抑えた――

 というのが真相ではなかったか、と――

 僕は想像をしています。

 

 その兄・伊周も――

 寛弘7年(1010年)に亡くなります

 

 おそらくは病死でした。

 

 隆家が 31 歳になる年のことでした。