兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか)が亡くなって 2 年ほどが経った頃――
藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、目の病気を患います。
目の病気にも色々ありますから――
どんな病気であったのかを限られた史料から具体的に思い描くのは難しいのですが――
先の尖ったもので目を傷つけたことが原因と診断をされていたようです。
直ちに命の危険が及ぶような病気ではなかったはずですが――
目が痛かったり見えづらかったりして、症状は相当に厄介であったに違いありません。
時代は動いていました。
姉・定子(ていし)は既に亡く――
その姉が嫁いだ天皇も亡くなり――
新天皇の皇太子には、叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘・彰子(しょうし)が生んだ第二皇子が選ばれていて――
姉・定子が生んだ第一皇子が即位をする可能性は、ほぼ絶たれていました。
――ここに残って権力闘争に明け暮れていても仕方がない。それよりは目の病気のほうを何とかしたい。
そんな方向へ隆家の気持ちは傾いていったようです。
その頃――
九州に目の病気の治療を得意とする外国人――中国大陸ないし朝鮮半島から渡って来た者――が、いたそうで――
その噂をききつけ――
隆家は、自ら望んで九州の官職に就きます。
――大宰権帥(だざいごんのそち)
という官職でした。
この官職は、京の都の有力な政治家たちにとっては、
――左遷先
と認識をされることが多かったそうです。
実は――
兄・伊周が、あの花山(かざん)法皇(ほうおう)との一件で左遷をされた際の官職も、
――大宰権帥
でした。
本来は、九州全域の軍事力を束ね、大陸との交易の利権を握る官職なので――
かなりの重職なのですが――
その役得を十分に活かすには――
相応の政治力と、
――武人としての資質
とが必要でした。
兄・伊周には明らかに不向きな官職でしたが――
隆家には、打ってつけの官職であったといえます。
あまりにも隆家向きの官職であったので――
叔父・道長は厳しく警戒をしたようです。
道長の脳裏をよぎったのは、九州発の大規模な反乱の危険性ではなかったでしょうか。
この頃から遡ること 70 年ほど前――
関東および瀬戸内で大規模な反乱が起こっています。
平将門(たいらのまさかど)や藤原純友(ふじわらのすみとも)といった地方在住の貴族ないしは元貴族が首謀者となった反乱でした。
当時の京の都の政権にとっては幸いなことに――
が――
隆家は、摂関政治の祖・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の孫で、その嫡男・藤原道隆(ふじわらのみちたか)の子です。
貴族としての格が違います。
加えて――
――武人としての資質
をおそらくは備えていました。
――あの甥を九州に遣るのは、虎を野に放つようなものだ。
そう考え――
叔父・道長は、隆家の九州への下向を阻もうとします。
が――
隆家にとって幸いなことに――
当代の天皇は、叔父・道長と反りが合わず、また隆家と同じように目の病気を患っていたので――
隆家には同情的でした。
叔父・道長の意に反し――
隆家の九州への下向を認めるのです。
いつの日か、甥・隆家が大軍を率いて京の都へ攻め上ってくる危険性を――
道長は心のどこかに留めたに違いありません。