マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(14)

 藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、

 ――刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)

 を経て、京の都へ帰って来た後――

 一部から右大臣などの高官へ推す声があったにもかかわらず――

 宮廷への出仕を控え続けたために――

 結局は政権の中枢へ入ることはありませんでした。

 

 隆家の帰京の後に、京の都で天然痘が猛威を振るったことは――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 今日の医学知識に基づいていえば――

 九州北部沿岸での戦いが「天然痘」というウイルス感染症を日本列島に招き入れた可能性が考えられるのですが――

 

 当然ながら――

 当時の人々は感染症の概念を知りませんので――

 

 隆家は、おそらくは、

 ――異国からの賊徒たちとの戦いで穢れを一身に浴びたため――

 と理解をしたでしょう。

 

 それは、

 ――当たらずとも遠からず。

 であったといえます。

 

 九州から帰って来た隆家は――

 京の都の自邸に引きこもって、いったい何を考えていたのか――

 

 おそらくは――

 子らの将来でしょう。

 

 息子たちをしかるべき位階・官職につけたり――

 娘たちをしかるべき良人へ嫁がせたり――

 

 四十路に入った隆家にとっては――

 喫緊の課題であったに違いありません。

 

 以後 10 年余りの間、隆家は――

 ときに閣僚級の官職に就きつつも、主に子らの生活基盤の確立の面倒をみていたと考えられます。

 

 そして――

 長暦元年(1037年)――

 隆家は再び大宰権帥(だざいごんのそち)に任じられ、九州へ下向をします――ときに 58 歳――

 

 この頃までには、子らの世話に一応の区切りがついていたと考えられます。

 

 あの叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)も――

 その 9 年前に亡くなっていて――

 その嫡男であった従弟・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が政権を司る時代になっていました。

 

 それにしても――

 還暦を目の前にして、あらためて九州への下向を受け入れるとは――

 

 隆家には九州の水がよほど合ったに違いありません。

 

 ――大宰権帥

 の再任の例は、隆家以外には見当たらないのではないでしょうか。

 

 その九州での官職を――

 隆家は 63 歳まで務めます。

 

 そして――

 帰京後の長久5年(1044年)――

 隆家は 65 年の生涯を閉じました。