マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(12)

 寛仁3年(1019年)12月――

 藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は大宰権帥(だざいごんのそち)の官職を辞し、京の都へ戻ります。

 

 ――刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)

 から半年後――

 隆家は 40 歳になっていました。

 

 よって――

 さながら凱旋将軍のような役回りで京の都へ戻ったように思えますが――

 実際は違ったようです。

 

 隆家が、総司令官として、あまりにも手際が良かったために――

 この異国からの賊徒 3,000 人の来襲は、京の都で脅威と感じられる前に、撃退をされてしまったのですね。

 

 皮肉なことです。

 

 京の都の公卿たちの中には、

 ――我々が感知しえぬ間に、勝手に戦いを始め、勝手に打ち負かしているのであるから、恩賞を与える必要はない。

 と主張をした者さえいたといいます。

 

 それでも、

 ――そんなことをいっていたら、この先、同じように異国から賊徒が攻め寄せてきたときに、誰も命を張って戦わなくなる。

 という極めて真っ当な主張が採用をされ――

 隆家の指揮下で戦った貴族や豪族たちには、隆家の評価や推挙に基づき、恩賞が授けられています。

 

 恩賞の下賜が円滑に決まらなかった理由の一つには――

 このときの京の都に、一種の、

 ――権力の空白

 が生まれていたことが考えられます。

 

 ――刀伊の入寇

 が起こる前年まで権力の絶頂にあった叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)が――

 ちょうど賊徒が攻め寄せてきたの同じ時期に病をえて出家をしているのです。

 

 その 2 年前には――

 嫡男・藤原頼通(ふじわらのよりみち)に藤原氏一族の代表者の役割と摂政の官職とを譲っています。

 

 もちろん――

 道長の有名な和歌、

 

  この世をば

  我が世とぞ思ふ

  望月の

  欠けたることも

  無しと思へば

 

 が読まれたのは、嫡男・頼通に自身の権限を譲った翌年のことですから――

 出家をしたとはいえ、

 ――刀伊の入寇

 の後も依然、政権の支配者であり続けたと考えられないことはありません。

 

 が――

 

 もし、そうであったのなら、

 ――我々が感知しえぬ間に、勝手に戦いを始め、勝手に討ち負かしているのであるから、恩賞を与える必要はない。

 といった無分別の主張が表に出てきて歴史に記録をされるとは、ちょっと僕には思えないのですね。

 

 藤原道長は――

 甥・隆家が九州北部沿岸で、

 ――刀伊の入寇

 の難局に挑んでいる頃に――

 その影響力を急速に失っていったのではないかと想像をします。

 

 隆家が大宰権帥を辞し、京の都へ帰ってきたのは――

 そうした、

 ――権力の空白

 が京の都で生じ始めた直後ではなかったかと考えられます。

 

 ……

 

 ……

 

 異国からの賊徒 3,000 人を実際に追い返したのは、隆家の指揮下にあった貴族や豪族たちであり、それらの指揮下にあった将兵たちですが――

 隆家がいなければ、それら貴族・豪族・将兵たちが互いに力を合わせることはできなかったに違いありません。

 

 よって――

 最大の功労者が隆家自身であったことは、当時の京の都の人たちにとっても明らかでした。

 

 ――あの御方を右大臣などのお迎えし、世の中を治めていただきたい。

 と願う声も出ていたそうです。

 

 が――

 隆家自身は、終始一貫、自分自身への恩賞や栄達を全く望まなかったといわれています。

 

 それでいて――

 自身の指揮下で戦った貴族や豪族たちには恩賞の下賜を願い出た――

 

 隆家の器量の大きさは本物であった――

 と感じます。