マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(15)

 平安中期の公卿・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)について、僕が最初に強く意識をしたのは――

 高校の古文の授業でした。

 

 ――道長と隆家

 と題された教材の古文です。

 歴史物語『大鏡』の一節です。

 

 この一節で――

 藤原道長(ふじわらのみちなが)が甥・隆家を自邸での酒宴に呼び出したことが触れられています――8月25日の『道草日記』で述べた内容です。

 

 ――道長が、高慢で狭量の甥・隆家を巧く手懐けた。

 と――

 当時の僕は理解をしました。

 

 ――藤原隆家

 のことは、単に、

 ――藤原伊周(ふじわらのこれちか)の弟の一人

 としてしか捉えていませんでした。

 

 ――高慢で狭量――

 というのは、藤原伊周に当てはまる形容であり――

 その弟の一人ですから、

 (たぶん、兄・伊周と似たような人物だったんだろう)

 と思い込んだのですね。

 

 よって――

 例の酒宴での一幕は、藤原道長の視点で追っていたのです。

 

 (やはり天下人になる人物は、たとえ自分との権力闘争で打ち負かした相手であっても、見どころのある人物には、ちゃんと手を差し伸べていたんだな)

 と感じていました。

 

 その後――

 大学に入って――

 僕は中国の近代史に興味をもち――

 アヘン戦争のことなどを色々と調べ始めたことがありました。

 

 外国の軍隊が急に国内へ攻め込んできたときに――

 国内では、どんな人物が、どんな戦略で立ち向かうのか――

 そこに当時の僕は関心をもっていました。

 

 ――アヘン戦争

 でいえば、

 ――林(りん)則徐(そくじょ)

 のような人物が採った戦略です。

 

 当然ながら――

 日本の事例にも興味がわきました。

 

 ――元寇

 における、

 ――北条時宗

 には、小学生の頃から関心をもっていました。

 

 あらためて色々と調べ直したことを覚えています。

 

 その頃に――

 僕は、

 ――刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)

 を初めて知ったのです。

 

 いえ――

 

 ――刀伊の入寇

 という言葉それ自体は知っていました。

 高校の日本史の教科書に載っていたからです。

 

 が――

 その言葉に関心を向けることはありませんでした。

 

 ただ試験で高得点を取るための手段として覚えていた言葉にすぎません。

 

 大学に入って――

 高校の日本史の試験から解放をされていたからでしょう。

 

 このときに初めて――

 僕は、

 ――刀伊の入寇

 について、やや詳しく調べ始めました。

 

 そして――

 このときの大宰権帥(だざいごんのそち)が藤原隆家であったことを知るのです。

 

 あの道長邸での酒宴から 15 ~ 16 年が経っていたことを知って――

 僕は、藤原隆家の為人(ひととなり)について、俄然、興味がわいてきました。

 

 (いったい何があったんだ?)

 と――

 

 叔父・道長邸での“高慢で狭量”な隆家像と――

 国防の最前線で総指揮を執った隆家像とが――

 容易に結びつかなかったのです。