藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、大宰権帥(だざいごんのそち)として、
――刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)
の難局を切り抜けた後――
自身の指揮下で戦った貴族や豪族たちが恩賞を授かれるように、政権の中枢と折衝を重ねたけれども――
自分自身は恩賞を望まなかったらしい――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
その年の終わりに京の都へ帰ってからも――
宮廷へ出仕をすることなく、自邸に引きこもって過ごしていたといわれます。
翌年――
京の都で天然痘が大流行をしたそうです。
人々は、
――賊徒たちと戦った隆家たちが九州から持ちかえった疫病である。
と噂をしあったそうです。
が――
当時は、
――感染
という概念はなく――
隆家たちに魔物のようなものが憑(つ)いたと理解をされたようです。
もちろん――
実際には、
――憑依
ではなく、
――感染
であったでしょう。
現代医学の知識や理解に照らしても――
当時の京の都の人たちの噂は、完全に外れているというわけではありませんでした。
が――
隆家たちには、どうしようもなかったことです。
隆家が帰京後も宮廷への出仕を控えたのは――
そうした事情もあったと考えられます。
もし、出仕をしていたら――
ひょっとすると、
――右大臣
などに昇進をして――
叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)の実質的な後継者として――
政権を束ねていたかもしれませんが――
天然痘が猛威を振るえば――
結果は同じであったでしょう。
――疫病は政道が乱れている証拠である。
と解釈をされ――
隆家は、程なく失脚をしたに違いありません。
この頃の隆家は――
そこまで見通した上で自身の去就を決めていたように――
僕には思えます。