マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(13)

 藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、大宰権帥(だざいごんのそち)として、

 ――刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)

 の難局を切り抜けた後――

 自身の指揮下で戦った貴族や豪族たちが恩賞を授かれるように、政権の中枢と折衝を重ねたけれども――

 自分自身は恩賞を望まなかったらしい――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 その年の終わりに京の都へ帰ってからも――

 宮廷へ出仕をすることなく、自邸に引きこもって過ごしていたといわれます。

 

 翌年――

 京の都で天然痘が大流行をしたそうです。

 

 人々は、

 ――賊徒たちと戦った隆家たちが九州から持ちかえった疫病である。

 と噂をしあったそうです。

 

 天然痘はウイルス感染症です。

 

 が――

 当時は、

 ――感染

 という概念はなく――

 隆家たちに魔物のようなものが憑(つ)いたと理解をされたようです。

 

 もちろん――

 実際には、

 ――憑依

 ではなく、

 ――感染

 であったでしょう。

 

 現代医学の知識や理解に照らしても――

 当時の京の都の人たちの噂は、完全に外れているというわけではありませんでした。

 

 が――

 隆家たちには、どうしようもなかったことです。

 

 隆家が帰京後も宮廷への出仕を控えたのは――

 そうした事情もあったと考えられます。

 

 もし、出仕をしていたら――

 ひょっとすると、

 ――右大臣

 などに昇進をして――

 叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)の実質的な後継者として――

 政権を束ねていたかもしれませんが――

 

 天然痘が猛威を振るえば――

 結果は同じであったでしょう。

 

 ――疫病は政道が乱れている証拠である。

 と解釈をされ――

 隆家は、程なく失脚をしたに違いありません。

 

 この頃の隆家は――

 そこまで見通した上で自身の去就を決めていたように――

 僕には思えます。