マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(11)

 ――刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)

 では――

 大宰権帥(だざいごんのそち)の藤原隆家(ふじわらのたかいえ)の采配が功を奏し――

 九州北部沿岸に押し寄せた武装集団は、沖合いへの撤退を強いられ――

 その後、壱岐対馬を経て朝鮮半島の東方沖へ逃れていったようです。

 

 すかさず――

 藤原隆家は追撃を命じました。

 

 追撃を命じた理由は――

 おそらく、その時点では、攻め寄せてきた武装集団の正体が、よくわかっていなかったからです。

 

 当初は、

 ――朝鮮半島から攻め寄せてきた。

 と考えられたようです。

 

 ――朝鮮半島へ逃げ戻るのかどうか、できる限り見届けよう。

 そういう思惑があったのでしょう。

 

 その際に――

 隆家は、京の都で培っていた国家運営の感覚を活かします。

 

 ――追撃は壱岐対馬までとする。それより先は控えよ。

 と命じたのですね。

 

 当時――

 日本列島側の勢力圏は、

 ――壱岐対馬まで――

 というのが暗黙の了解でした。

 

 日本列島側の勢力圏を越えて兵船を出すことの危険性を――

 隆家は十分に弁えていたのです。

 

 配下の兵船が朝鮮半島へ不用意に近づけば、ただちに外交問題となります。

 

 下手をすると――

 日本列島と朝鮮半島との間で全面戦争となりかねない――

 

 当時の朝鮮半島の王朝は、

 ――高麗

 でした。

 その前の王朝は、

 ――新羅

 です。

 

 日本と新羅とは、7世紀に全面戦争を行っています。

 新羅は、中国大陸の皇朝・唐の後ろ盾を得て、日本に対し、終始、優勢でした。

 その苦い歴史の記憶を、隆家は忘れていませんでした。

 

 ――朝鮮半島をいたずらに刺激してはならぬ。

 

 それは中央政府の政治家としての外交センスでした。

 

 一方――

 高麗の方も、

 ――日本列島をいたずらに刺激するべきではない。

 との考えで実は動いていました。

 

 九州北部沿岸に押し寄せた武装集団は、朝鮮半島からやってきたのではなく――

 中国大陸の北東部――後に「満洲」と呼ばれる地域――からやってきていたのです。

 

 その武装集団の襲撃には高麗も手を焼いていて――

 密かに報復の機会を狙っていたようです。

 

 隆家らが押し返した武装集団の兵船は、高麗の兵船の待ち伏せを受け、壊滅をしています。

 

 その際に――

 高麗は、武装集団が捕えていた対馬壱岐の住人たちの多くを救い出し、日本列島側へ丁重に送り返しています。

 

 そうした朝鮮半島側の対応への答礼に――

 隆家は細心の注意を払いました。

 

 京の都の意向を明確に伝え、しかるべき金品を贈った上で、丁重に引き取りを願ったのです。

 

 高麗からの使者に、できる限り丁寧に接すると同時に――

 京の都へ不用意に近づけないように、注意深く取り計らったと考えられます。

 

 当時の日本列島は、生活や文化の水準が朝鮮半島よりも低いと、考えられていました。

 

 ――わざわざ国力の劣勢をみせることはない。

 

 隆家の脳裏では――

 かなり冷静な計算が働いていたと考えられます。

 

 隆家は、

 ――武人としての資質

 を十分に備えてはいましたが――

 本来は、あくまでも文人でした。

 

 武人としてだけでなく、文人としても――

 隆家は、摂関政治嫡流に生まれた責務を過不足なく果たしたといえます。