マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(10)

 藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が大宰権帥(だざいごんのそち)として九州に下向をすると――

 まさに水をえた魚のように、その能力を活かし、かつ、その人柄を慕われました。

 

 隆家が着任をしてから数年ほどで――

 九州在住の貴族や豪族たちの多くが、隆家の施策を支え、隆家の差配に信頼を寄せるようになったといいます。

 

 目の病気の経過については、よく伝わっていないようですが――

 おそらくは、目当ての外国人医師に診てもらい、それなりに軽快をみたのではないでしょうか。

 

 叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)は気が気でなかったでしょう。

 

 ――頼もしい。

 と思ったかもしれませんが――

 同時に、

 ――恐ろしい。

 とも思ったに違いありません。

 

 隆家が九州へ下向をする 70 年前――

 平将門(たいらのまさかど)や藤原純友(ふじわらのすみとも)といった貴族ないし元貴族が反乱を起こし――

 京の都に震撼をもたらしました。

 

 隆家が、九州一帯の貴族や豪族たちに心服をされた上で、同様の反乱を起こせば――

 今度は京の都が攻め落とされかねません。

 

 平安中期の朝廷は――

 中央に直轄軍をもっていませんでした。

 

 隆家が京の都へ攻め上ってきたら、ひとたまりもなかったでしょう。

 

 平将門藤原純友の反乱の際は――

 現地で直ちに鎮圧に動いた貴族や豪族たちがいました。

 

 が――

 隆家が反乱を起こせば――

 本来なら鎮圧に動く貴族や豪族たちでさえも、隆家に従い、京の都へ攻め上がってくる可能性がありました。

 

 それだけの潜在能力を隆家は秘めていました。

 

 そして――

 その潜在能力を、少なくとも叔父・道長は、正しく見積もっていたはずです。

 

 その後――

 その潜在能力が図らずも証明をされます。

 

 ――刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)

 です。

 

 寛仁3年(1019年)春――

 50 隻くらいの船に分乗をした 3,000人くらいの武装集団が、突如、対馬および壱岐を襲い、殺人や放火、略奪を始めたのです。

 

 対馬壱岐に駐在をしていた兵力は、襲ってきた武装集団の 10 分の 1 にも満たず――

 効果的な防衛はできませんでした。

 

 対馬壱岐を制した武装集団は――

 やがて九州北部沿岸に押し寄せ、同様の暴虐を働きました。

 

 実は――

 それまでの過去 200 年間くらいにわたって――

 対馬壱岐、九州北部沿岸は、同様の襲撃を、史料に残っているだけで十数回ほど、受けてきました。

 

 が――

 このときばかりは、襲撃の規模が桁違いに大きかったようです。

 

 報せは直ちに大宰権帥(だざいごんのそち)の隆家のもとへ届けられました。

 

 隆家の決断は素早いものでした。

 最前線になった博多へ十分な数の将兵を送り、武装集団の撃退に成功をします。

 

 自らも総司令官として博多へ出陣をしたようです。

 

 摂関政治嫡流に生まれた貴族が自ら出陣をすれば――

 将兵の士気は、これ以上ないくらいに上がったでしょう。

 

 加えて――

 隆家が京の都から連れてきていた貴族たちの多くは、軍事に長けていたと考えられます。

 

 つまり――

 このとき――

 日本列島有数の精鋭部隊が、たまたま九州に駐留をしていたのです。

 

 襲撃の報せが京の都へ届く頃には――

 事態は収束へ向かいました。

 

 隆家が日頃から配下の者たちをきちんとまとめあげていたからこそ――

 可能であった撃退でした。