マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

意識の問題

 ――心

 は、

 ――自分自身で感じられること

 に加えて、

 ――自分自身で考えられること

 から、できあがっているように、思われがちである――

 と、きのう、のべました。

 

 ――自分自身で感じられること

 と、

 ――自分自身で考えらえること

 というのは、

 ――自分自身の心のうち、自分自身で気づける部分

 と、ほとんど同じであり――

 この部分が、

 ――意識(いしき)

 として、

 ――無意識(むいしき)

 から区別をされている――

 ということは、2月27日から昨日にかけて、くりかえし、のべてきたことです。

 

 そして――

 この、

 ――意識

 は、

 ――正常な“心の働き”

 つまり、

 ――脳の働きの一部

 である、と――

 

 ……

 

 ……

 

 ここで――

 深い問題に、ぶつかります。

 

 ――意識

 が、

 ――自分自身の心のうち、自分自身で気づける部分

 であるのは、よいとして――

 そのときに――

 その“部分”に気づいている“自分自身”とは何なのか――

 という問題です。

 

 この問題も――

 古くから、多くの学者たちを悩ませてきました。

 

 ――心とは何か。

 が何千年も前から大問題でありつづけたことは、4月14日に、のべましたが――

 その大問題の中心には、この、

 ――意識の問題

 があったといえます。

 

 つまり、

 ――自分自身の心のうち、自分自身で気づける部分

 に気づいている“自分自身”とは、いったい何者なのか――

 という問いです。

 

 答えは――

 まったく、わかっていません。

 

 わかっていませんが――

 ひとまず――

 それを、

 ――自我(じが)

 と呼(よ)んでいます。

 

 そして――

 気づかれる部分のほうを、

 ――自己(じこ)

 と呼んでいます。

 

 つまり、

 ――意識の問題

 というのは、

 ――なぜ自我は自己に気づけるのか。

 という問いに、まとめられるのです。

 

 その前提(ぜんてい)として、

 ――“自我”とは何か。

 とか、

 ――“自己”とは何が違(ちが)うのか。

 とかいった問いが挙げられます。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』