マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

自我:“無意識に覚えてきたこと”から成り立っているのではないか

 自我(じが)は、

 ――昔の自分自身

 が素(もと)になっていて――

 自己(じこ)は、

 ――今の自分自身

 が素になっているのではないかと、ぼくは考えている――

 と、きのう、のべました。

 

 この考えは――

 ちょっと、わかりにくいと思います。

 

 なので――

 ややくわしく、のべましょう。

 

 ――今の自分自身

 というのは――

 そんなに難(むずか)しくはありません。

 

 ――たった今の自分自身

 という意味です。

 

 難しいのは、

 ――昔の自分自身

 のほうです。

 

 これは、

 ――生まれてから、つい先ほどまでの自分自身

 という意味です。

 

 つまり、

 ――昔の自分自身

 というのは、

 ――長い期間をかけて積み重ねられてきた記憶(きおく)のうちの自分自身に関わること

 を指しています。

 

 ――記憶

 については、4月16日に、のべました。

 

 ――そのときのことをあとあとまで覚えておくこと

 です。

 

 よって、

 ――昔の自分自身

 というのは、

 ――生まれてから、つい先ほどまでの自分自身のことのうち、自分自身で覚えてきていること

 といえます。

 

 ここでいう、

 ――覚えてきていること

 というのは、必ずしも意識(いしき)をして覚えてきたことだけではありません。

 

 無意識(むいしき)に覚えてきたことも、多く含(ふく)んでいます。

 

 むしろ――

 無意識に覚えてきたことのほうが、意識をして覚えてきたことよりも、ずっと多いでしょう。

 

 つまり、

 ――自我

 のほとんどは、

 ――無意識に覚えてきたこと

 から成り立っている――

 

 もう少し簡単(かんたん)にいうと――

 

 ――自我

 は、

 ――無意識

 から、できている――

 

 そういうことです。

 

 ……

 

 ……

 

 以上は――

 あくまでも、ぼくの考えです。

 

 あなたは、どう考えますか。

 

 ……

 

 ……

 

 ぜひ、あなた自身の考えを――

 これから少しずつ、深めていって下さい。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』