マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

自我や自己の正体

 ――自分自身の心のうち、自分自身で気づける部分

 に気づいている“自分自身”というのは、いったい何者なのか――

 

 この問いに、まとめられるのが、

 ――意識(いしき)の問題

 である――

 と、きのう、のべました。

 

 その際(さい)に、

 ――気づいている“自分自身”

 は、

 ――自我(じが)

 と呼(よ)ばれ、

 ――気づかれている“自分自身”

 は、

 ――自己(じこ)

 と呼ばれている、とも――

 

 ……

 

 ……

 

 ――自我

 とか、

 ――自己

 とかいった言葉があると――

 それらの正体は、すっかりわかっているように思われがちですが――

 

 そんなことはありません。

 

 ――自我や自己の正体

 というのは、まだ、よくわかっていないのです。

 

 ……

 

 ……

 

 よくわかっていないのですが――

 

 ぼくは――

 こんなふうに考えています。

 

 ――自我は、これまでに感られてきたことや考えられてきたことの一部が繋(つな)ぎあわされて、できあがっている何かであり、自己は、いま感じられていることの一部が繋ぎあわされて、できあがっている何かである。

 と――

 

 思いっきり簡単(かんたん)にいってしまえば、

 自我は、

 ――昔の自分自身

 が素(もと)になっていて――

 自己は、

 ――今の自分自身

 が素になっている――

 ということです。

 

 いま、

 ――素になっている。

 と、のべました。

 

 その意味は、

 ――(ある物事が)根本的な材料になっている。

 です。

 

 つまり、

 自我は、

 ――昔の自分自身

 が根本的な材料になっていて――

 自己は、

 ――今の自分自身

 が根本的な材料になっている――

 ということですね。

 

 では――

 それら材料から自我や自己が、いったいどうやって、できあがっているのか――

 

 それについては――

 ぼくにも、よくわかりません。

 

(きっと、脳(のう)の中に、ものすごくよくできた仕組みがあるんだろう)

 と思っています。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』