マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

その錯覚の理由:心は目に見える?

 ――心は目に見えない。

 というけれども――

 実は、

 ――自分自身の心

 だけは目に見えているのではないか――

 と、きのう、のべました。

 

 実際(じっさい)には、

 ――自分自身の心のうち、自分自身で気づける部分

 だけが、目に見えるように感じられているだけなのだけれど――

 多くの人たちが、そうは考えていない――

 

 ――自分自身の心

 だけは目に見えていると考えがちである――

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 ――自分自身の心

 だけは目に見えている――

 というのは、

 ――錯覚(さっかく)

 です。

 

 ここでいう、

 ――錯覚

 とは、

 ――実際とは違(ちが)ったように感じられること

 です。

 

 例えば、

 ――真夜中に壁(かべ)の汚(よご)れを見て「おばけだ!」と驚く。

 といったことです。

 

 なぜ、

 ――自分自身の心

 だけは目に見えている――

 という錯覚は起こるのでしょうか。

 

 それは、

 ――自分自身の心のうち、自分自身で気づける部分

 の多くが、いま目に見えていること、あるいは、むかし目に見えていたことから、できあがっているからです。

 

 もちろん――

 その“自分自身で気づける部分”は、目に見えることだけで、できあがっているのではありません。

 

 耳に聞こえること――

 手に触(ふ)れられること――

 舌(した)で味わえること――

 鼻で嗅(か)げること――

 などからも、できあがっています。

 

 これらは、すべて、

 ――感じられること

 ですね。

 

 これらに加えて、

 ――考えられること

 も、

 ――自分自身の心のうち、自分自身で気づける部分

 の一部であるのです。

 

 よって――

 目に見えることというのは、

 ――自分自身の心のうち、自分自身で気づける部分

 の、ほんの一部にすぎないのですが――

 

 それでも――

 目に見えることというのは、ものすごく目立つので――

 

 ――自分自身の心のうち、自分自身で気づける部分

 の、ほんの一部とは思えずに、大部分である、と――

 つい思ってしまうのです。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』