マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

内省の本質

 ――自我

 とは――

 おそらく、

 ――“末梢起始の演算”および“中枢起始の演算”で用いられる“神経配線”それ自体

 であり――

 ――自己

 とは――

 おそらく、

 ――“末梢起始の演算”ないし“中枢起始の演算”の進行によって誘発をされる“中枢起始の演算”の結果

 の総体である――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 要するに、

 ――自我

 とは、

 ――神経配線

 のことであり、

 ――自己

 とは、

 ――中枢起始の演算

 のことである――

 という話です。

 

 ……

 

 ……

 

 自分でいうのも変ですが――

 

 このように述べておきながら、

 (ホントかよ)

 と思っています。

 

 百歩、譲って――

 その主張は、

 ――勇み足

 以外の何ものでもない――

 と、何より僕自身が、そう思っています。

 

 そもそも、

 ――自我

 や、

 ――自己

 の定義など――

 そんなに簡単にできるわけがない――

 

 ……

 

 ……

 

 が、

 

  自我:神経配線

  自己:中枢起始の演算

 

 という観方は――

 すぐに捨て去ってしまうには、ちょっと惜しい気がしています。

 

 ――自我

 と、

 ――自己

 との関係については――

 しばしば、

 ――内省をしているときの主体が「自我」であり、客体が「自己」である。

 といわれます。

 

 この主張に基づけば――

 

 ――内省

 とは、

 ――既定の“神経配線”において未定の“中枢起始の演算”が行われること

 に他なりません。

 

 ――既定と未定と――

 の対応ですから――

 そこには、当然ながら、多少なりとも齟齬が生じるでしょう。

 

 少なくとも、

 ――既定の“神経配線”において規定の“中枢起始の演算”が行われること

 では決して生じえない齟齬が生じているはずである――

 

 この齟齬こそが内省の本質ではないか――

 そんなふうに思います。