マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

勇み足を承知で、あえて述べれば――

 脳を含む神経系について考えるときに――

 基本とするのがよいのは、

 

  (末梢起始の演算 + 中枢起始の演算)× 神経配線

  = 感覚の体験 + 反応の体験

 

 の図式ではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 一方――

 自我の起源や自己の生成には、

 ――“末梢起始の演算”の記録と“中枢起始の演算”の記録との仕分け

 が深く関わっているのではないか――

 ということを、11月16日の『道草日記』で述べました。

 

 要するに、

 ――“末梢起始の演算”で用いられる“神経配線”と“中枢起始の演算”で用いられる”神経配線”とは互いに相応に明確に異なっているはずであり、その差異が起因となって“末梢起始の演算”と“中枢起始の演算”とが厳密に識別をされている。

 ということです。

 

 もし、“末梢起始の演算”と“中枢起始の演算”とが混同をされれば――

 おそらく、

 ――感覚の体験

 と、

 ――反応の体験

 との混同が起こります。

 

 その結果――

 自分の目や耳で感じたことを自分の頭が考えたこととみなしたり――

 自分の頭で考えたことを自分の目や耳で感じたこととみなしたり――

 するようになるでしょう。

 

 そうなったら――

 自我も自己も、その輪郭は酷く曖昧となるに違いありません。

 

 より具体的には、

 ――自我

 の起源が、あたかも自己の外部に存在をするかのように感じられ――

 また、

 ――自己

 の生成が、自己と非自己との区別に基づかないうちに進んでしまう――

 ということです。

 

 ここでいう、

 ――自我

 とは――

 勇み足の危険性を十分に承知の上で、あえて述べれば――

 おそらくは、

 ――“末梢起始の演算”および“中枢起始の演算”で用いられる“神経配線”それ自体

 です。

 

 また、

 ――自己

 とは、おそらく、

 ――“中枢起始の演算”の結果

 の総体です。

 

 より厳密には、

 ――“末梢起始の演算”ないし“中枢起始の演算”の進行によって誘発をされる“中枢起始の演算”の結果

 の総体です。