マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“記録”とは“神経配線”それ自体――

 脳を含む神経系については――

 11月13日の『道草日記』で示した、

  

  (末梢起始の演算 + 中枢起始の演算)× 記録

  = 感覚の体験 + 反応の体験

 

 の図式を基本にしたらよい、と――

 僕は考えています。

 

 ただし――

 この図式は、1行目の「記録」が扇の要のような役割を果たしているために――

 脳を含む神経系の機能の不可思議を、たんに「記録」に押し込めてしまっているだけのような印象を与えます。

 

 つまり――

 この、

 ――記録

 について、多少なりとも具体的なことをいわないと、

 

  (末梢起始の演算 + 中枢起始の演算)× 記録

  = 感覚の体験 + 反応の体験

 

 の図式ついて、何もいわなかったことになるのではないかと、思うのです。

 

 ……

 

 ……

 

 それゆえに――

 

 僕は、きのうまでの『道草日記』で、

 ――記録

 について、様々に考えてみたわけですが――

 

 その結論は、

 ――“記録”とは、心理的な営為としての“記憶”に基盤を与えているとみなしうる生理的な現象である。

 との命題でした。

 

 そして、

 ――記憶

 には、少なくとも3つの要素、

 ――記銘

 ――保持

 ――想起

 があることから、

 ――記録

 にも、おそらくは3つの要素があり――

 それら要素は、比喩的には、

 ――記録の格納

 ――記録の貯蔵

 ――記録の搬出

 と表され――

 それらの本態は、それぞれ、

 ――神経配線の生成

 ――神経配線の存続

 ――神経配線の照会

 と、みなされうるであろう――

 

 それが――

 きのうまでの『道草日記』で考えてきたことの概略です。

 

 ……

 

 ……

 

 正直にいって――

 この、

 ――記録

 について、

 ――記録の格納

 ――記録の貯蔵

 ――記録の搬出

 の比喩表現で表されうる要素を前提にする必然性はありませんでした。

 

 そもそも、

 ――記録

 と、

 ――記憶

 とが厳密に対応をしているとは考えにくく――

 そのために、

 ――記憶

 の3つの要素、

 ――記銘

 ――保持

 ――想起

 をわざわざ持ち出す必然性もなかったといえます。

 

 それにもかかわらず――

 あえて持ち出したのは、

 ――記録

 について、少しでも具体的に考える材料が欲しかったからです。

 

 その結果――

 曲がりなりにも、

 ――記録

 には、少なくとも3つの要素があると結論づけることができ――

 それら要素を、

 ――神経配線の生成

 ――神経配線の存続

 ――神経配線の照会

 と呼びうることがわかりました。

 

 もちろん――

 この考察は間違っているのかもしれません。

 

 たぶん――

 多かれ少なかれ、間違っています。

 

 が――

 一つ重要なことが示されているとも思っています。

 

 それは、

 ――“記録”とは“神経配線”それ自体である。

 との命題です。

 

 この命題を踏まえれば、

 

  (末梢起始の演算 + 中枢起始の演算)× 記録

  = 感覚の体験 + 反応の体験

 

 の図式は、次のように書き換えられます。

 

  (末梢起始の演算 + 中枢起始の演算)× 神経配線

  = 感覚の体験 + 反応の体験

 

 ……

 

 ……

 

 多少なりとも間違っていると思われる考察で導きだした図式に、どれほどの意味があるのか――

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん――

 大した意味はないでしょう(苦笑

 

 ……

 

 ……

 

 が――

 間違った考察から間違っていない結論の出されることが、たまにあるそうです。

 

 よって――

 そうなる可能性を信じた上で、とりあえず何らかの結論に辿り着いておくことに意義はあった、と――

 今も思っています。