マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今日のコンピュータが行っている演算とは全く別の何かを

 ――“配線”は“演算”に一定の傾向をもたらし、“演算”は“配線”に一定の変化をもたらす。

 という観方を踏まえて、

  演算 × 配線 = 体験

 の図式を振り返ってみると、

 ――“配線”が変われば、“演算”も変わるので、“体験”は、おそらくは“配線”や“演算”が変わる以上に変わる。

 との命題には、相応の蓋然性が感じられる――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ところで――

 

 11月9日の『道草日記』で――

 僕は、

 ――「演算 = 体験」の図式は何ら保証をされていない。

 と述べました。

 

 その根拠は、実際のところ、僕自身の曖昧な直感でしかなかったのですが――

 

 ひょっとすると、

 ――“配線”は“演算”に一定の傾向をもたらし、“演算”は“配線”に一定の変化をもたらす。

 ということや――

 ひいては、

 ――“配線”が変われば、“演算”も変わるので、“体験”は、おそらくは“配線”や“演算”が変わる以上に変わる。

 ということの直観であったのかもしれない――

 とも思っています。

 

 もちろん、

 ――脳を含む神経系で“演算”が行われると、なぜ人の心に“体験”をが生じるのか。

 という根源的な問いには答えを全く見出せていないわけで――

 

 そうした問題意識が、

  演算 = 体験

 の図式を真っ先に拒んだ理由なのですが――

 

 仮に、

 ――脳を含む神経系で“演算”が行われると、なぜか人の心に“体験”が生じる。

 ということを盲目的に受け入れたとしても――

 

 (「演算 = 体験」の図式は到底ありえない)

 と、僕は思います。

 

 脳を含む神経系は、今日のコンピュータが行っている演算とは全く別の何かを、人知の及ばぬ原理に基づき、黙々と行っているに違いないのです。