マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“配線”に一定の変化がもたらされ、“演算”が取りやめとなる

 ――脳を含む神経系は、“演算”を、ある程度、任意に取りやめることで、自由な意志の発動を消極的に起こしうる。

 との考えについて――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この考えの肝は、

 ――ある程度、任意に取りやめる――

 にあります。

 

 もう少し厳密にいえば、

 ――当該の“演算”とは独立に、その“演算”が取りやめとなりうる――

 となります。

 

 例えば――

 ある“演算”A、“演算”B、“演算”Cのうち、“演算”Aと“演算”Cとが中途で取りやめとなることによって、“演算”Bの結果が、あたかも自由な意志に基づき、選びとられたかのように感じさせうるような場合に――

 その“演算”Aや“演算”Cは、“演算”Aでも“演算”Bでも“演算”Cでもない全く別の“演算”Dの結果によって中途で取りやめとなる――

 ということです。

 

 こんなことが起こりうるでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 わかりません。

 

 今のところ――

 たんなる思いつきの域を出ません。

 

 が――

 

 ……

 

 ……

 

 ここでいう、

 ――演算

 が、

 ――(脳を含む神経系を成す)神経細胞の個々の状態の推移

 であることを思い起こせば――

 

 (ひょっとすると起こりうるのではないか)

 と思います。

 

 (“配線”に一定の変化がもたらされれば、十分に起こりうるであろう)

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 ここでいう、

 ――配線

 が、

 ――(脳を含む神経系を成す)神経細胞うしの接続

 であることは――

 いうまでもありません。

 

 つまり――

 先ほどの場合でいえば、

 ――“演算”Aや“演算”Cが行われている“配線”に、“演算”Dが一定の変化をもたらし、“演算”Aや“演算”Cが中途で取りやめとなる。

 ということです。

 

 もちろん――

 こんなことが起こりうるには、“演算”Aや“演算”Cが行われる“配線”と“演算”Dが行われる“配線”とに何らかの交わりのあることが必要となりますが――

 そのような交わりの想定は――

 脳を含む神経系において、個々の神経細胞が他の夥(おびただ)しい数の神経細胞と――少なくとも数千個くらいの神経細胞と――接続をしている実態を思い浮かべれば――

 それほど不自然には感じられません。