脳を含む神経系の働きを、
――演算
にすぎないと、みなしてしまうと――
人の社会は、かなり深刻な事態に陥る――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
人に自由な意志は備わっていないことになり――
どんな悪事に手を染めても、その罪を問いようがなくなる――
ということです。
よって――
脳を含む神経系の働きは、
――演算
以外の何かであるはずだが――
その一方で、
――演算
らしき様相も呈している――
との結論を得ます。
その結論を踏まえた上で――
脳を含む神経系についての基本形の図式、
演算 × 配線 = 体験
を顧みると――
――もし、人に自由な意志が備わっているのだとしたら、それは“配線”に由来をしているに違いない。
という話になります。
そうであるならば――
人の自由な意志は、
――配線
つまり、
によって、いかに担保をされうるのか――
という疑問が――
大いに気になってきます。
そもそも――
始まる前から結果がわかっている、
――演算
という生理的な現象に――少なくとも部分的には――基づいているにもかかわらず――
ヒトの脳を含む神経系において、人の自由な意志は、いかに具現をされるのか――
という疑問は――
実に厄介です。
この疑問は、
――脳を含む神経系は、“演算”を、ある程度、任意に取りやめることができる。
と仮定をすれば――
ひとまず解決はします。
つまり――
ヒトの脳を含む神経系は、“演算”に対する拒否権のようなものを備えることで、自由な意志の発動を消極的に起こしうる――
という考えです。
例えば――
ある“演算”A、“演算”B、“演算”Cのうち、“演算”Aと“演算”Cとが中途で取りやめとなることによって、“演算”Bの結果が、あたかも自由な意志に基づき、選びとられたかのように感じさせうる――
ということです。
(その自由な意志の消極的な発動を可能にしていることこそ、“配線”ではないか)
そう思います。